施川ユウキ映画コラムー全ての映画は、ながしかく

2022年5月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第18回 映画語りについて

第18回 映画語りについて

映画を観るのも好きだけど、映画語りを聴くのも好きだ。YouTubeやPodcastにあるレビュー動画や音声を、作業中よく聴いている。ネタバレはそれほど気にしないが、影響されやすいので映画を観る前にその作品の語りはなるべく聴かない。観た後でも、自分にとって大切な作品だった場合は、あまり語りを聴く気が起きない。感想が上書きされそうで怖いからだ。ある程度時間を置いて、作品に対する自分の感情や解釈が体の一部になるくらい固まってから聴くようにしている。好きでも嫌いでもない映画をぼんやり観た後、その作品に熱を持っている人の解説を聴くのがオススメだ。作品の解像度がグングン上がっていく感覚が心地良い。結果どうでもいい映画が、好きになったり嫌いになったりする。
先日『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』をぼんやりと観た。大満足のエンタメ作品だった。最近のMCUには全然思い入れがないから、早速ネットに数多あるレビューを聴いてみる。うなずかされる語り、ピンとこない語り、色々ある。並行世界から来たヴィランに対して「悪を治療する」展開は悪を単純化していてよくない、みたいな批判を聴き、なるほどと思う。そう言われると、観ている間モヤモヤしていた気がしてくるから不思議だ。続けて肯定的な語りを聴く。マルチバースという設定を使って過去のスパイダーマン作品を救う構造を絶賛していた。自分も同意見だったが、細かく言語化されるとスッキリする。やはり良い映画だ。とはいえ批判意見の説得力もあり、自分の中ではそこそこ良かったに落ち着いた。落ち着ける必要は特にないのだけど。この一連のムーブは投票行動によく似ている。他人の意見を参考に作品をジャッジして、賛否の「賛」に一票入れたのだ。そして同時に、作品語り自体もジャッジしている。面白い映画語りはチャンネル登録するし、そうでないものは二度と聴かない。
SNSでの行動が投票に似てしまうのは、いいねや再生回数、チャンネル登録、あらゆる評価が得票数のように数値化されるせいだろう。SNSの外でも同じだ。単行本を出せば、アマゾンのレビュー数や星の数、ランキング順位、読書メーターの登録数、諸々生々しく数値化される。作者は「清き一票を!」と宣伝ツイートをしまくり、反応やリツイート数を見て一喜一憂する。評価する側も、言及した時点で映画語りチャンネルと同じくジャッジされる。肯定派と否定派の争いに巻き込まれ、言葉を誤れば最悪炎上しかねない。誰も安全圏にいないのだ。
このコラムも、ある意味映画語りだ。次回も読むかどうか、毎回ジャッジされる。ただ漫画連載ほど緊張感はない。本業じゃないという言い訳が用意されているし、自分語りへの照れもあってひっそりやっているからだろう。なぜかずっと続いている。

2022年4月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第17回 『マトリックス』の思い出

第17回『マトリックス』の思い出

『マトリックス レザレクションズ』を観た。前作が公開されたのが18年前、内容をほとんど覚えていない状態で劇場へ行った。序盤、キアヌ演じるアンダーソンは、「マトリックス」三部作という伝説的ゲームを作ったクリエイターとして生活している。親会社ワーナーの意向で「マトリックス」の新作を今更作ることになるアンダーソン。映画『マトリックス』の映像がフラッシュバックとして度々挟み込まれ、ゲームは現実だったのでは、という妄想に悩まされるアンダーソンの日々が描かれる。言うまでもなく、監督自身の話が投影されている。映画全体は、説明的なセリフが多く正直退屈だったのだけど、このメタなくだりは最高だった。僕自身『マトリックス』の記憶がぼんやりしているので、フラッシュバックのシーンに、「何か思い出しそう」という実感が伴って楽しかった。実際、映画を観ながらすっかり忘れていたある記憶がよみがえったのだ。
『マトリックス』公開当時僕は大阪に住んでいて、デビュー間もない新人漫画家だった。友達も少なく恋人もいない寂しい毎日を過ごしていた僕は、「じゃマール」という雑誌で出会いを求めることにした。じゃマールとは、今で言うマッチングアプリみたいな使い方ができる雑誌だ。同い年の女性と知り合い、初デートで映画を観ることになった。それが『マトリックス』だ。僕はひとりテンションが上がり、前日ロケハン的に映画館のある天王寺へ行き、そのままなぜか予習的に『マトリックス』も観た。めちゃくちゃ面白くて、デート中すでに観たことがバレないよう振る舞わねばと心配したくらいだ。当日現れた彼女は、ボーイッシュなファッションの大人しめな女性で、映画の受けはいまいちだった。お互い緊張して上手く喋れない感じだ。フェスティバルゲートという娯楽施設内のシアターで、映画の後いくつかのアトラクションを楽しんだ。というか楽しもうとするも、やはりお互いぎこちなさが隠せず、「楽しいですね・・・」みたいな白々しい会話がぽつりぽつり続く。帰り道、いい雰囲気が作れなかったことに自己嫌悪を覚えた。彼女とはその後数回会ったが、会うたびにみじめな気持ちになり、何事もなくフェードアウトしてしまった。
『マトリックス レザレクションズ』の鑑賞中フラッシュバックしたのは、その時の断片的な記憶だ。すっかり忘れていた。フェスティバルゲートは、こじんまりした遊園地のような施設だ。今はもう存在しない。例のデートの日は平日だったせいか自分たち以外客がほとんどいなかった。思い出として突如出現した、閑散とした遊園地の風景。現実感が希薄で、夢の中の記憶によく似ている。彼女もデートも僕の妄想なのかもしれないと、思うこともできる。未熟だった自分を振り返るための、大事な思い出にすることもできる。映画を観ながらそんなことを考えた。

2022年3月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第16回 映画の感想を保留してしまう

第16回「映画の感想を保留してしまう」

映画館へは、ひとりで行くことが圧倒的に多い。客席を見渡すと一人客が少数派なのがいつも不思議だ。誰かと観ると、同行者が隣でちゃんと楽しめているかどうかが気になってしまい、映画に没入できない。それにエンドロール後、照明が点灯するや否や「最高だった!」あるいは「最悪だった」と素朴な感想を表明することがスムーズにできない。ほとんどの場合、賛否を決めかねた曖昧な表情のままロビーまで移動し、「前のカップルうるさかったよね・・・」みたいな会話をして終わってしまうのだ。別につまらなかったわけでもないし、相手に遠慮しているわけでもない。自分の中で結論がまだ出せず態度を保留している感じだ。
それで思い出したのだが、十数年前映画デートをした時の話だ。上映終了後、僕は珍しく興奮しながらベラベラと感想をまくし立て続け、マナーに反するがそのままエレベーターの中でも喋り続けていた。周りは同じ映画を観た観客同士でぎゅうぎゅうだった。「最後にフィリップ・シーモア・ホフマンが出てきたのが良かった!」僕は意気揚々とフィリップ・シーモア・ホフマンが起用された意図について語り、彼女は「へー」と相づちを打っていた。ところが帰宅後調べてみると、僕の勘違いでフィリップ・シーモア・ホフマンなんて全く出ていなかったのだ。あの時エレベーターにいた他の客がどう思ったか。想像するだけで震えが止まらなくなる。見間違えた役者が、よりによってフィリップ・シーモア・ホフマンというニワカ映画通が好きそうな役者名なのが、より一層痛々しい。以降僕は、上映終了直後は感想を保留するようになった気がする。
では映画の感想をいつ言うのか。自分の場合、編集との打ち合わせの場で雑談になった時、大抵映画の話をしている。最近だと『マリグナント』が超絶面白く、今一番語りたい映画だ。しかしネタバレせずに語れないタイプの作品なので、未鑑賞の相手に「良かったですよ」とぼんやり繰り返すくらいしかできていない。コロナ以降、対面で長丁場の打ち合わせをする機会が減り、映画の話をしたいように話すタイミングが、意外とない。
ちなみに、したいように話せない映画と言えば『ソウ』シリーズがある。普通に話していても、会話の中で「そうですね」「そう!」「そうじゃなくて」というフレーズが出るたび、「『ソウ』だけに?」みたいなダジャレが暗黙の内に成立してしまう。もちろん互いにいちいち指摘しないが、一瞬変な空気になってしまう。ノイズとして無視できないレベルで頻出するので、『ソウ』の話はしたくなくなってしまうのだ。

2022年2月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第15回 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

第15回「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

テレビをつけたら金曜ロードショーで、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を放映していた。テレビシリーズの特別編集版らしい。番組はすでに終盤で、神回と呼ばれるテレビシリーズ第10話のクライマックスだった。以前観た時ボロ泣きしたシーンが、唐突に画面に映し出される。するとパブロフの犬のように涙が出てきた。「ワンシーン観ただけで泣けるだと?」と自分でもびっくりして、放送終了後ネットフリックスで10話のラストをもう一回観てみた。やはり同じように涙がこぼれる。何度観ても、泣けてしまう。おかしい。確かに若い頃と比べ涙もろくなっているが、同じ場面を見るとスイッチを押したように涙が出るのは異常だ。
『ヴァイオレット~』は泣けると評判なので、YouTubeには10話を見て泣くリアクション動画が山ほどある。動画には作品本編の映像は載せられないため、鑑賞しているユーチューバーの顔だけが映し出される。自分と同じくらい泣いてるのか気になって、幾つか見て回った。本編映像はないが、音声はかすかにマイクが拾っていて、どのシーンを見ているかが辛うじてわかる。物語のクライマックス、ユーチューバー達は皆一様に泣き、僕も一緒に泣いた。映像を見る必要すらなく泣けてしまうのだ。外国人の動画も多い。より泣ける気がする。言語の壁を超えたことで更なる感動があるのかもしれない。たまに泣いていないユーチューバーもいる。その場合のみ自分も泣けない。スッと素に戻る。面白い。物語のキャラクターに感情移入しているのではなく、キャラクターに感情移入するユーチューバーに感情移入して泣くのだ。一人、まったく表情を変えずにモニターを凝視する強面ユーチューバーがいた。「あー、これは僕も泣けないな」と思っていたら表情を変えないまま彼の目から涙がツーっと垂れて、その瞬間僕も泣いた。自分が何に感動しているのか、最早わからない。感動ではなく、ただの条件反射だ。ずっと条件反射で泣いている。しかし、どこまでが感動でどこからが条件反射なのだろう。判別できない。初見のみが感動で、二度目以降が条件反射というわけでもないはずだ。気付いたらティッシュの山ができていた。泣くのは気持ちがいい。同時に恐怖も覚える。数十分の動画で、感情が暴力的にコントロールされてしまうのだ。
ひと通り泣いた後、ツイッターで「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」「初めて見た」等で検索した。金ローでの放映によって感動が広がっていることを確認し、よしよしと満足感を得るためだ。感動は、きっと人間だけが持つ欲望のひとつだ。それは良きものとして周りの人間にも広げたくなるし、広がって欲しいと願う。際限なく。抗うことは難しい。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、すごい作品です。未見の人は、是非観てください。こんな風に。

2022年1月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第14回 実況民

第14回「実況民」

十数年前、テレビばっか見ていた時期があった。住んでいたワンルームの部屋は、見ていようがいまいが常にテレビがついていた。ちょっとした外出時もつけっぱなし。寝る時やラジオを聴く時はつけっぱなしのテレビをミュートにする。天井に電灯がなく、液晶テレビは常夜灯のひとつだった。卓上ライトと、もうひとつの灯りとしてデスクトップPCが常にオンになっている。原稿中にテレビを見ながらよく2ちゃんねるの実況板を横目で眺めていた。習慣的に欠かさず観ていた番組は、フジテレビで夕方やっていた、ちょい古いドラマの再放送枠。『ランチの女王』とか『ナースのお仕事』とか、同じようなラインナップが繰り返し流されていた。知ってる内容のドラマ、実況スレの反応も変わらない。世界がループしているみたいだ。原稿を描きながら、「この生活が永久に続いていくのも悪くないな」と、不思議な安心感を覚えていた。他は、NHKで深夜不定期にやっていた『MUSIC BOX』が好きだった。60~90年代のヒット曲とともに当時の映像が淡々と流されるフィラー番組だ。仕事中のながら見に丁度良い。実況スレもノスタルジックな話題とまったりした空気で、心地が良かった。特に書き込んだりはしない。テレビと同じで、単にスレの流れを眺めているのが好きだった。
ある時、実写映画『デビルマン』が深夜放送された。『デビルマン』は、当時「糞映画」と揶揄される程評判の悪い作品だった。未見だった僕は、怖いもの見たさもあり、実況スレも含め密かに楽しみにしていた。しかし実際放送が始まると、それは単に退屈な映画だった。ネタ的に笑えそうな場面があっても、そういう気分にはなれない。勝手な印象だが、作り手から作品が愛されていない感じがした。観ていると悲しくなる。実況スレも最初こそは「キター」と盛り上がっていたものの、徐々に書き込みが減っていく。いたたまれない時間だった。僕は気まずさに耐えられずスレを閉じた。出来の悪い作品をネタとしてあえて観るという行為自体が、下品で恥ずかしいことに思えた。うっすら罪悪感すら覚え、しばらく実況板からも離れてしまった。
ちなみに、『デビルマン』と並んでダメな映画として挙げられがちな実写版『キャシャーン』は、個人的にはかなり好きだ。粗は目立つけど、監督から全力で愛されている作品だと伝わってくる。観る度、監督の自作に対する想いの強さに当てられてぐったりする。愛を感じられる作品は、内容がちぐはぐでも心に響く。今思えば、もしかしたら『デビルマン』も作り手からは愛されていたのかもしれない。僕には感じ取れなかっただけで。かと言って、もう一度観る気にはなれない。出来が悪いことは笑えるけど、愛されていないことは笑えない。ただ悲しいだけだ。
あれから随分経つ。いつのまにか実況板を見なくなっていた。ツイッターで実況用ハッシュタグを追ったりもしない。そもそもテレビをあまり見ない。ライフスタイルが変わってしまったのだ。見る時はリアルタイムではなく、TVerのアプリを立ち上げる。
『MUSIC BOX』については、今でもたまに思い出す。ノスタルジーに浸った深夜の甘い時間そのものを、ノスタルジックに思い返すのだ。

2021年12月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第13回 喧騒セリフが難しい

第13回「喧騒セリフが難しい」

映画を観ていると、たまに喧騒を表す演出で、物音と重ねて複数のモブによる断片的な会話が入れられるシーンがある。例えば居酒屋だとすると、ガヤガヤした音を背景に「生ふたつ!」「メール見た?」「部長がさー」「タクシー呼んだから」「わはははは!」みたいな。僕も漫画でそういった場面を描くことがあるが、適切なセリフを作るのが苦手だ。なので映画で喧騒シーンが来ると注目してしまう。
カフェや商店街や教室や駅のホームで聞こえてくる衆人たちの会話を、状況に合わせていくつものパターン考えるのはかなり面倒臭い。自分のセンスが隠しきれず、多様な人々を描写するはずが全員似たような奴になってしまいがちだ。かと言ってセンスを封印して、居酒屋の例で出したような類型セリフや「昨日のバラエティ番組見た?」みたいな固有名詞を消した嘘くさいやり取りは書きたくない。自分の場合、実際に街で聞いたセリフを割とそのまま使うのだけど、シチュエーションの幅にも限界がある。ちなみにリアリティを持たせるには、気が利いていたり、印象的なセリフは避けた方が良いと思う。世の中で交わされる会話のほとんどは、他人からすれば面白くないし印象に残らないからだ。喧騒とはそういうものだ。「面白くなさ」の多様さが世界を豊かに見せてくれる。
リアルであれば良いというわけでもない。喧騒セリフとは、その場所の雰囲気を伝える目的で入れられる。場合によっては、時代や社会全体の空気を会話の断片で表現したりもする。あるいは、そこにいるキャラクターの内面を反映させることもある。考えれば考えるほど難しい。
ここまで書いて、いい感じの喧騒セリフが出てくる映画を具体的に挙げようと思ったのだけど、何も思いつかなかった。記憶力の問題もあるが、印象に残らないからこその喧騒セリフなわけで、覚えているはずもない。
今、サイゼリアでこの文章を打っているので、試しに喧騒に耳を傾けてみる。「ああ、楽天ペイ」「やばいよ、ビビった」「それじゃなきゃ意味がない」「超迷惑でしょ」「え、大盛り? それ」「このカタチ面白い」「10月4日がワクチン2回目だからー」「なんか欲しいものある? 何系?」「香水は使わない」
席の関係で聞き取りづらく、拾えたのはこれくらいだ。「面白くなさ」は十分だが、ほぼ使い物にならない。まず、色々と文脈が見えなさ過ぎる。何の話をしているのかぼんやり想像できそうな断片が望ましい。話題については、ワクチン云々は世相を表していて良い線行っているが、説明臭いのが惜しい。最後のふたつは、女子高生二人組による誕生日プレゼントの話だ。これは悪くないかもしれない。いずれにしても、サイゼリアの空気を上手く伝えられるものにはなっていない。
空気を伝える表現として、ネットの掲示板やSNSの画面を使うパターンもある。これもある種の喧騒だ。そして漫画内でそれを描くのも当然苦手だ。SNSの場合、書き込み内容だけでなく、それらしいアイコンやアカウント名まで考えなくてはいけない。激ムズだ。映画でネット喧騒シーンがあると、自宅であれば一時停止して細かく見てしまう。
映画を観ていて気になるシーンは、人それぞれ違うのだろうけど、自分の場合「喧騒」がそのひとつだという話。

2021年11月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第12回 フラッテリー・ママ

第12回「フラッテリー・ママ」

『グーニーズ』を観ると、小学校の同級生T君の母親を思い出す。
T君の家は金持ちだった。というか、金持ちの雰囲気をまとっていた。ビックリマンチョコを箱買いして周りにチョコを配ったり、家にトイレがふたつあったり、父親はPTAの会長をしていたり、当時の僕からしたら有力者の家庭に思えた。T君の母親は、顔がフラッテリーママに似ていた。『グーニーズ』に登場するギャング団の凶悪な女ボスだ。僕の記憶の中のT母はフラッテリーママに置き換えられていて、常に黒いベレー帽を被り、黒い服で真珠のネックレスをしている。
ある夏の日、友達数人とT宅で遊んでいるとT母が「ソフトクリームの安売りやってるから行こう」とみんなを連れ出した。アイスクリーム屋まで車で20分位かかる。僕は気が乗らなかったが、渋々車に乗り込んだ。店に着くと、T母はソフトクリームを子供の人数分プラス1個注文した。家で留守番しているTの弟の分らしい。包装用のフタやケースはない。夏に剥き身のソフトクリームを素手で持ち帰るとか絶対溶けるだろと思っていると、なぜか僕にふたつ手渡された。「みんなで交代しながら持って」とT母。嫌な予感がした。車中、各々ソフトクリーム食べる。僕も、左手に注意を払いつつ、右手の分を平らげた。皆満足し、アイスの話題はそこで終了した。左手にひとつ残された忌々しいソフトクリームが、日差しと掌の体温で少しずつ溶けていく。予想通り、誰も交代してくれない。車に揺られながらソフトが崩れないように気を配る。なぜか冷房は入れず、窓全開だった。風がクリームに直撃する。「溶けてるんですけど」運転席のT母に訴えかけるも、そのまま持っててと軽くあしらわれた。交代の指示もなかった。助手席のT君も、こちらを全く気にかけてくれない。彼らが何を考えているのかわからなかった。ベトベトになっていく左手を、僕は無言で見つめていた。友人達は災難だったなと言わんばかりにニヤついていた。クリームの半分くらいがフロアマットに溶け落ちる。右手に持ち替えることもままならなかった。こんな残骸、土産にしたところで食べるわけがない。廃棄確定の食べ物を大事に保持しているのが惨めに思えた。屈辱的だった。僕は白いドロドロの一部をわざとシートにも垂らした。T君とT母は、僕の存在を忘れたように変わらず気にしない様子だ。人間としてないがしろにされている。邪悪なファミリーに見えた。フラッテリー一家だ。行きよりもずっと長く、居心地の悪い時間だった。T宅に着き、玄関で出迎えたT弟にかつてソフトクリームだったものを差し出す。それは当然突き返され、ゴミとなって終わった。T母からのねぎらいの言葉は、最後までなかった。
自分の中ではかなり嫌な思い出なのだけど、書き出してみると全然大した話じゃない。だが小学生の僕は子供心に傷つき、憤り、T母に殺意すら覚えたのだ。今になって考えると、おそらく裕福そうに見えるT家に対して前々から無意識の内に劣等感を抱いていたのだろう。そのモヤモヤが、彼らからぞんざいに扱われることで怒りとなって表出したのだ。T母は、ガサツでうっかり者なだけで、もちろん邪悪ではない。更に言うと、フラッテリーママのイメージは僕の歪んだ心が見せた虚像で、現実には似ても似つかなかった可能性すらある。そもそもT家は大して金持ちでもなかっただろう。しかし殺人事件は、こんな動機で起こったりもするのだ。何もしなくてよかった。
というわけで『グーニーズ』を観ると、僕はT君の母親を思い出してしまう。

2021年10月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第11回 眠くなる映画

第11回「眠くなる映画」

映画を観ながらの居眠りは気持ちがいい。すでに観たことある映画は特にいい。気持ちよく居眠りできるベストな映画を選んでいる時間は格別だ。選択中に寝落ちしてしまった時の不完全燃焼感も悪くない。半醒半睡で夢と映画の区別がつかなくなったあの瞬間、多幸感しかない。かと言って、眠くなる映画がいいというわけでもない。作品の魅力と眠気のせめぎ合いが大事だからだ。眠くなる映画は、気持ちがいいどころか最悪な状況を引き起こす場合もある。
ずいぶん前に『トロン:レガシー』というSF映画を劇場で観た。コンピューターの世界に入り込んでアレコレする話なのだけど、原稿明けだったせいか主人公が現実世界にいる段階で目がトロンとしてきて、気がつくとエンドロールになっていた。照明がつき場内が明るくなる。ひとつ前の席にいた青年がこっちをじっと睨んでいた。やばい人かと思いきや、どうやら居眠りしながらイスを何度も蹴ってしまっていたらしい。僕がやばい人だった。平身低頭謝るも、自覚のなさが態度に出ていたのだろう、憤懣やるかたない様子で青年はその場を去っていった。自己嫌悪にヘコみつつ、時間差で自分も出口に向かう。人の流れに押されているうちに、いつの間にかエスカレーターでさっきの青年の目の前に立ってしまっていた。振り向いて「先程はすみません、後から出たのに前に並んでいて重ね重ねすみません」みたいな対応は、もちろんできない。うつむいて気づかないふりをしたまま、刺すような視線を背中に受け続ける地獄の時間を過ごした。以来、外で映画を見る時は眠らないよう細心の注意を払っている。
事件から一年後くらいの話だ。当時お付き合いしていた女性がいて、その日二人で街をぶらついていると彼女に急な仕事の用事が入ってしまった。じゃあ終わるまで僕はそこのネカフェで時間潰すよと言い、ビルの前で一旦別れることになった。直後、店の入口で僕は自分の勘違いに気づく。そこはネカフェではなく個室ビデオだったのだ。利用経験がないからシステムは詳しく知らない。単に時間を潰すだけだ、エロビデオではなく一般作品を観て過ごそう、彼女の用事が終わり次第別の場所で待ち合わせすればいい。決心し、カジュアルな気持ちで入店する。アダルト以外のラインナップが思いのほか貧弱で、「コレはデートの合間に入る店ではない」といきなり気づかされる。動揺しつつも、映画のDVDを一枚だけ持って指定された部屋へと向かった。選んだ作品は、以前上映中に寝てしまった『トロン:レガシー』だ。
リベンジとばかりに再生すると、不思議なことが起こった。なぜだか目がトロンとして、そのままウトウトと眠ってしまったのだ。『トロン:レガシー』は、体調に関わらず観ると目がトロンとして眠くなる映画だったらしい。目覚めるとすでに映画は終わっていた。携帯には無数の着歴。慌ててリダイヤルするも出てもらえない。「ひとりでタクシーで帰る」といった旨のショートメールが残されていた。タクシーを拾い追いかけ、平身低頭謝る。彼女によると、どうやら個室ビデオまで迎えに来て「連れの男性が寝てしまっているだろうから、呼び出して欲しい」みたいな問答を店員としていたらしい。大変な事態である。
あれから十年近く経つ。いまだに『トロン:レガシー』を全編ちゃんと観てはいない。観ても寝てしまうし、起きたら誰かを怒らせているからだ。

2021年9月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第10回 得体の知れない金持ち

第10回「得体の知れない金持ち」

「この要素が含まれている映画は、どんな駄作でも嫌いになれない」みたいなものが、誰にでもひとつはあると思う。猫とか鮫とか爆発とかカーチェイスとか裸とか女スパイとか太ったオタクとか狂った博士とか変わった拷問とかトム・クルーズとか。いずれも一部映画ファンから好かれがちな要素だ。これらに類する、自分にとっての好きな要素を最近発見した。「得体の知れない金持ち」だ。我々一般人の延長線上にいるような現実的な金持ちじゃない。映画に登場する、実体を捉えきれない概念的な金持ち。得体の知れなさに想像力がかき立てられる。金を持っているほど良いというわけではなく、重要なのは彼らが世界観をまとっているかどうかだ。人間性は善でも悪でも構わない。あしながおじさんもデスゲームの主催者も、等しく魅力的な得体の知れない金持ちだと言える。
具体的な作品名を挙げると、例えば『華麗なるギャツビー』。ディカプリオが得体の知れない金持ちを演じている。城で開かれる豪華絢爛なパーティーで、ド派手な花火をバックに現れる謎の富豪ギャツビー、ワクワクが止まらない最高の登場シーンだ。正体が明らかになった以降の展開も無常感あって素晴らしいが、個人的には虚像が暴かれないタイプの作品が好みだったりする。
韓国映画『バーニング 劇場版』にも得体の知れない金持ちベンが出てくる。暇つぶしにビニールハウスに放火していることをサラッと告白するベン。主人公ジョンスは得体の知れない彼をギャツビーに例える。物語中盤でジョンスの幼馴染ヘミが行方不明になり、ジョンスはベンが殺人者なのではと疑う。ベンは最後まで得体が知れず、映画は衝撃的なラストを迎える。彼の得体の知れなさは、庶民であるジョンスと金持ちの間にある越えられない壁を表しているようだ。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』も、ある意味得体の知れない金持ちに関する映画だ。さえない青年が、一部の権力者や金持ちしか知らない世界の秘密がある、という陰謀論に取り憑かれていく。現実なのか妄想なのか始終謎に満ちていて、得体の知れない金持ち=オカルトだと突きつけられるような気持ちになる。
得体の知れない金持ち映画で最も好きな作品は『コズモポリス』だ。主人公は巨万の富を動かす若き投資家。リムジンに乗った彼は、渋滞の中2マイル先の床屋へと向かう。途中、部下とか嫁とか愛人とか医者とか、何人かの登場人物と一対一の対話を繰り広げる。会話の内容は観念的でよくわからない。派手なシーンはなく、ただ静かにリムジンが進んでいく。地味ながらずっと観ていられる。僕にとって「得体の知れない金持ち」は観念的な存在だ。全てが観念的な本作は、「こんな映画を待っていた!」と快哉を叫びたくなる一作だ。クローネンバーグ監督作の中で、最も繰り返し観ているタイトルなのだけど、退屈とか難解とか言われがちであまり人気はない。
とりあえず今思いついた4作を取り上げたが、得体の知れない金持ち映画は数多あるので、より魅力的な作品を忘れているかも知れない。
ちなみに、好きな要素とは逆に「これが含まれている映画はどんな名作でも好きになれない」みたいな要素もあったりする。邦画でたまに目にする「美化された土下座」がそれだ。強要される場合は問題ないが、頼みごとをする時の自発的な土下座が苦手だ。土下座で言うことをきかせようとするのは、気持ち悪いタイプの暴力に思える。暴力性に無自覚なまま、誠意を表す行為として美談的に描かれる土下座シーンは、どうにも見ていられない。

2021年8月1日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」
第9回 恋の話に似ている。

第9回「恋の話に似ている。」

2016年2月、僕は自分のツイッターアカウントで以下のつぶやきを投稿した。
映画に限らず「冷静に考えたら糞だよね」的感想は作品の一面しか言い表してない。誰かを一瞬でも冷静でなくさせた時点で作品は時代を超えて残る可能性を手に入れている。人は作品について語るより、冷静でなかった自分について語りたいものだし、十数年後も語られる作品は、そういう作品だったりする。
140文字ぴったり。映画『X-ミッション』の感想と合わせてツイートしている。
その頃僕は高円寺に住んでいて、原稿が上がると新宿へ映画を観に出掛け、サウナで一泊し朝イチでもう一本映画を観て帰るという、最高の休日の過ごし方をしていた。宿泊はリラクゼーションルームのリクライニングシートか、大部屋で雑魚寝をするシステムだった。その日は薄暗い大部屋で、おっさん達の病的なイビキに囲まれながら、くだんのツイートをしていた。
『X-ミッション』とは、エクストリームスポーツを駆使する犯罪組織に元アスリートの新米FBI捜査官が潜入捜査するアクション映画だ。犯罪組織といっても、彼等は犯罪よりも大自然が舞台のエクストリームスポーツに異常な執着を見せていて、脳筋カルト集団と呼ぶ方が実態に近い。スカイダイビング、サーフィン、スノボ、ウイングスーツでの滑空、ロッククライミング、危険極まりないプレイをCG不使用で見せるド迫力映像がこの映画の売りだった。作品としての評価は正直高くない。脚本にアラが多いせいだろう。ネタ映画としても凡作扱いされがちで、公開から5年経った現在は話題にのぼることも少ない。
公開当時、僕はこの映画を生涯ベスト級だと絶賛し熱狂していた。命がけのエクストリームスポーツというアクティブな主題に対して、あまりにも雑なシナリオ、薄っぺらいセリフ回し。そこが逆に良かった。「言葉や理屈なんてどうでもいい、エクストリームスポーツも映画制作も、ただやりたいからやるんだよ!」という強烈なメッセージを作り手から勝手に受け取り、熱くなっていた。何をするにもあれこれ理屈を考えすぎな自分にとって、『X-ミッション』が放つ考えのなさは、とてつもなく煌めいて見えた。同時に、熱狂が一時的なものだとも自覚していた。冷静になればそんな大層な映画ではないとわかっていたし、だからこそ冒頭のツイートを投げたのだ。
2021年、自分は今『X-ミッション』をどう思っているのか。確認のためスマホのネトフリアプリから本作を1.5倍速再生で観直してみた。途中から1.0倍速に正す。やはりエクストリームな場面は魅了される。終盤へ差し掛かる頃には大画面で見るべきだったと後悔していた。良い映画かどうかわからないが、かなり好きな映画だ。ただ生涯ベスト級は言いすぎだと思う。
過去、瞬間最大風速的に好きだった映画を改めて観直す。昔の恋に向き合うような気恥ずかしさを感じる。この言い回しがすでに相当気恥ずかしい。作品解釈に一方的な理想を押し付け、ダメな部分を「そこが逆に良い」と思い込んでいたかつての自分、どこかで錯覚だとわかっていながら。恋そのものじゃないか。きっと永遠に錯覚し続けられる作品が、名作と呼ばれるのだろう。それは必ずしも非の打ち所がない映画とは限らない。
新宿のサウナ、おっさん達のイビキ、マッチョ映画、それを語るおっさん。どういうわけか、恋の話にも似ている。

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