2009年9月11日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」掲載日変更のお知らせ
毎週木曜日に掲載しております映画コラム「全ての映画はながしかく」ですが、本誌連載の関係上、次回より毎月1日の更新へと変更させていただきます。
コラムを毎週楽しみにしておられました読者様には申し訳ございませんが、何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。
今後とも映画コラム並びに4コマ堂をよろしくお願いいたします。
2009年9月10日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第20回GOEMON
第20回「GOEMON」
散々な評判だった前作「CASSHERN」は、僕の大好きな作品だ。劇場で観たしDVDも限定版を発売日に買った。好きではあるものの、良い映画かと聞かれたら素直に頷けない作品だったりもする。
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2009年9月3日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第19回スラムドッグ$ミリオネア
第19回「スラムドッグ$ミリオネア」
エネルギーに満ち溢れた作品だった。クイズ「ミリオネア」で最終問題まで勝ち上がった青年が、不正を疑われ、自身の壮絶な半生と、その節目節目に偶然問題のヒントがあった事を語る。物語の骨子はシンプルだが、「クイズで勝ち進むシーン」「不正を疑われ追求されるシーン」「語られる半生」、三つの場面が平行して進んで行き、作品に絶妙なダイナミズムを与えている。
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2009年8月27日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第18回イエスマン “YES”は人生のパスワード
第18回「イエスマン “YES”は人生のパスワード」
この映画のプレスリリースの表紙は、見ようによっては冒険している。両手を広げ天を仰ぎ、「人生って素晴らしい!!」と高らかに叫んでるかのような表情のジム・キャリー。背景はお花畑と青空、そして「YES」というでっかい文字。一目見て「自己啓発セミナーか新興宗教の冊子みたいだ…」と若干引いてしまった。実際内容も、自己啓発セミナーで行動的になった主人公が、人生を好転させていく話だったりする。もちろん怪しげな洗脳映画というわけではない。そういったセミナーを皮肉ったパロディ要素も含む、ドタバタコメディだ。
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2009年8月20日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第17回チェンジリング
第17回「チェンジリング」
1928年。シングル・マザーであるクリスティンの9歳になる一人息子が、突然行方不明になった。それから5ヵ月後「息子が見つかった」との知らせを受け、ロス市警に引き合わされる事となるが、そこには見知らぬ少年が待っていた。
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2009年8月13日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第16回ベンジャミン・バトン 数奇な人生
第16回「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」
「死」を思う映画だった。
ベンジャミン・バトンの生涯は、死から死へと向かう孤独で静かなる旅だ。80歳の姿で生まれ、死を自然に受け入れる老人達の中で育った彼は、人の死に対して受容的な感覚を持っている。同時に「永遠は無い」という事を誰よりも心得ていて、人生に対しある種の虚しさを感じている。
生まれると同時に母親が亡くなる所から、彼の生い立ちは始まる。拾われた先の老人ホームで周りの老人達が死に、彼の世界を広げたマイク船長が目の前で戦死し、仲間達も死に、彼を捨てた実の父親トーマスが病死し、育ててくれた母親代わりのクイニーが死に、数々の死と対面する。そして映画は、最愛の恋人で語り部役のデイジーの死と共に幕を閉じる。
「もし、人が80歳で生まれ、ゆっくりと18歳に近づけていけたなら、人生は限りなく幸福なものになるだろうに」
この言葉にインスピレーションを受けて、F・スコット・フィッツジェラルドは原作となる短編小説を書いたという。
しかしベンジャミンの人生は、決して幸福と呼べるものではない。人々が老いていく中、自分だけが若返っていく。それは、出会う全ての人間とすれ違っていかざるを得ない寂しさを、一生抱え続ける人生だ。そして恋人のデイジーもまた、自分だけが老いていく悲しさからは逃れられない。だからこそ、たった一度しか訪れない二人の年齢が重なる一瞬は、奇跡のように甘美な時間となる。
その先は、互いに遠ざかっていく事が決定付けられている。ベンジャミンは、何かを成し遂げようとするモチベーションを持たない。生き方はひたすら静かだ。人生のピークは、デイジーと共に生きた僅かな一時にある。それは美しいけど、以降彼女の元を去り、若々しい体を手に入れながら惰性で死に向かっていく晩年は、あまりにも悲しく思えた。
劇中「7回落雷にあって生きている男」が登場し、落雷にあった状況をボソッと語る場面がコメディ要素として度々描かれている。実はこの男性は実在した人物で、7回落雷にあった後、失恋で自殺したらしい。
「数奇な人生はどこにでもある物だ」と言外に語る彼の存在は、ベンジャミンの小さな救いの一つになっていたのかもしれない。

監督●デビット・フィンチャー 脚本●エリック・ロス
出演●ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、タラジ・P・ヘンソン、ティルダ・スウィントンほか
上映時間●167分 配給●ワーナー・ブラザーズ映画
【イントロダクション】
1918年、ニューオーリンズ。黒人女性クイニーは置き去りにされた赤ん坊を拾う。ベンジャミンと名づけられたその男の子は、すぐにクイニーが営む施設の老人たちのなかに溶け込んだ。彼は80歳の姿をしていたのだ。養母の惜しみない愛情に包まれて、彼は成長する。車椅子から立ち上がって歩き出し、しわが減り、髪が増え、日に日に若返っていった。80歳で生まれ、若返っていく。数奇な人生を生きた、ある男の物語。
2009年8月6日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第15回ワールド・オブ・ライズ
第15回「ワールド・オブ・ライズ」
「ヒ、ヒゲが…様になってる!」
映画が始まって、まずディカプリオの顔つきに驚く。
彼が、子供が付けヒゲしたような奇妙な容貌をウダウダと続けている状況について、僕はここ数年釈然としないでいた。「タイタニック」以降ついてしまった優男イメージを払拭する為の「ヒゲ」だったのかも知れないが、結果的に「似合わないヒゲを生やした童顔男」のイメージで、僕の中では完全に定着してしまっていたのだ。
しかし、今作「ワールド・オブ・ライズ」のディカプリオは、一瞬誰だかわからない位ステキヒゲ男になっていて、舞台である中東にも違和感無く馴染んで見えた。単に観る側の僕自身が、彼のヒゲ面に慣れてしまっただけなのかもしれないけど、だとしてもなかなか出来る事ではない。受けないギャグを受けるまで言い続けるようなものだ。ヒゲがしっくりきたせいか、役者としての力量も格段に上がっているように見えて、これでもかと言う位ディカプリオの勇姿を堪能できた。ラッセル・クロウも役作りの為に2
8キロ増量して挑んだそうだが、活躍の場が少なく、完全にディカプリオの映画になっている。
内容を一言で言うと、「現在の中東はこんなにも混沌としている!」という現状報告映画だ。CIAの上司や他国の諜報部やテロ組織。何が事実かわからない情報戦の渦中で悪戦苦闘するディカプリオ。常に「混沌とした状況」を演出する事に主眼を置いて、脚本が書かれているように感じた。「アメリカの正義」といった大義すら怪しく、主人公のモチベーションも不安定で、混沌ぶりに拍車をかける。現代をサヴァイヴする我々に対して、「これを信じろ」という答えを出さない、真面目でドライな作品になっている。ただ、ドライ過ぎて少し物足りなくも感じた。似た関係性の映画で、監督の実弟トニー・スコットが撮った、捕虜になったCIA工作員の部下(ブラッド・ピット)を上司(ロバート・レッドフォード)が情報局を欺いて救出する傑作「スパイ・ゲーム」を思い出す。そっちの方が個人的には好きなんだけど、今の世界情勢ではこういう熱いスパイドラマは空々しく見えてしまうのかもしれない。
スパイ物は時代を反映していて面白い。我々は今、ディカプリオにヒゲが似合う時代を生きている。

監督●リドリー・スコット 脚本●ウィリアム・モナハン
出演●レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウ、マーク・ストロングほか
上映時間●128分 配給●ワーナー・ブラザーズ映画
【イントロダクション】
人命よりも情報が重んじられる世界で、様々な作戦を遂行するべく世界を駆け回って活動する、CIAの敏腕工作員ロジャー・フェリス。彼の命運は、現場から離れた安全な場所からノート型パソコンを通して作戦を展開させるベテラン局員、ホフマンが左右する。そんな中、中東のテロ組織のリーダーを追うフェリスは、対象に近づくほど、自分を救うはずの信頼が彼の命を危険にさらすと気づいていく…。
2009年7月30日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第14回バンク・ジョブ
第14回「バンク・ジョブ」
この映画は、1971年にイギリスで実際にあった銀行強盗事件が元になっている。「実話」というのが最大の売りなんだが、どこまで本当なのか鑑賞後調べたくなるくらい衝撃的なストーリーだった。簡単に解説すると、犯人たちが貸し金庫内から盗み出した金品の中に、エセ左翼活動家が政府を脅すために隠し持っていたマーガレット王妃のスキャンダル写真が含まれていて、「実は強奪事件は、MI5(日本で言う公安)がその写真を回収するために画策したものだった!」という陰謀渦巻く内容だ。実際、当時連日トップニュースで報じられていた程の強奪事件だったのに、突如報道規制がしかれ「なかった事」にされてしまったらしい。
真相はともかく、映画自体は素晴らしい出来だった。スタイリッシュな映像、スリリングな脚本、魅力的な登場人物達、エンターテインメント作品として完璧な仕上がりになっていて、すっきりした気分で試写室を後にする事が出来た。紋切り型の表現でしか賞賛出来てないんだけど、特にビッグスターが出てる訳でも無く、目新しい映像表現がある訳でもない本作の、どこが特筆すべき点なのかと言うと、それは恐らく「バランスの取り方の巧みさ」だと思う。
映画全体を通して、各キャラクター各シークエンスは絶妙なバランスで構成されている。それらは、ハリウッド大作でよく見られる、キャラ立てまくり緩急付けまくりの派手派手演出ジェットコースター構成とは真逆にある、飽くまで「抑えて抑えて」の演出で美しく調整されたバランスだ。各キャラは強く印象に残るほど突飛な個性を付けられて無いし、物語もサービス過剰な寄り道をしない。強盗団、MI5、マフィア、警察、それぞれの思惑は交錯するが、複雑になり過ぎず適度に知性を刺激させられる程度だ。全ての面でやり過ぎないようにしながら、華麗に全体のバランスが取られているように感じた。
上映中観客は、乱雑に波打つ事の無い、計算されつくした静かで確かな感情曲線を描かされる。例えるなら、水の注がれたグラスをこぼさないように早歩きでゴールに運んでいく緊張感と、ゴールでその水を一気に飲み干す爽快感。芸術というより、職人の技術を見せられたような感動とカタルシスのある佳作だ。
監督●ロジャー・ドナルドソン
出演●ジェイソン・ステイサム、サフロン・バロウズ、スティーブン・キャンベル・ムーアほか
上映時間●1時間50分 配給●ムービーアイ
【イントロダクション】
1971年ロンドン、英国全土を揺るがす一大事件が発生した。ベイカー・ストリートにある銀行の地下に強盗団が侵入、貸金庫内の数百万ポンドにも及ぶ現金と宝石類を強奪して行方をくらませたのだ。だが事件の報道は突如打ち切られた。それは英国政府からのD通告(国防機密報道禁止令)によるもので、そこには報じてはならない秘密、王室スキャンダルが隠されていた…。
2009年7月23日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第13回センター・オブ・ジ・アース
第13回「センター・オブ・ジ・アース」
子供の頃、飛び出す絵本が大好きだった。高価だった為なかなか買ってもらえなかったので、本屋に連れて行ってもらった時ボロボロになったサンプルをいつまでもいじり回していた。平行法やら交差法やらで立体視できるCG集が流行った時も、毎日のように本屋に通って頭痛がするまで飛び出し具合を堪能した。ホログラムのシールも好きだった。ビックリマンシールを集めていて、「魔肖ネロ」という、顔の部分がホログラムで印刷されたレアシールを宝物にしていた。いつも顔部分を指で触っていた。よくわからないが魔肖ネロになりたいとさえ思った。とにかく僕は「飛び出てくる(ように見える)物」が大好きだった。今も好きだ。
本作「センター・オブ・ジ・アース」は、そんな僕の「飛び出て見える欲」を十分満足させてくれる3D映画だ。映画というよりもアトラクションに近い。
迫力ある映像で観客に疑似体験させるアトラクション型ムービーを観ていると、「元々、『映画』ってこういう物だったんだろうな…」と思えてくる。こういうタイプの映画は、できるだけ大きなスクリーンで観るべきだ。
逆に、セリフや演出から自分なりに解釈を楽しむタイプの言語的で知的な映画は、スクリーンのサイズがでかくなればでかくなる程、でっかいフォントで難読漢字を読まされてるような気分になる。「ほら!でかいから読めるでしょ!」みたいな、馬鹿にされてる気分だ。大スクリーンの劇場で、小難しい地味な文芸作品を頭をひねって観るのは、考えようによっては奇妙な行為なのかもしれない。そんな事まで考えてしまった。
この作品は、映画というメディアが本来持つ見世物小屋的な楽しみ方を思い出させてくれる。「トロッコ速えー!」「気持ち悪い魚飛び出てきた!」「恐竜出たー!怖えー!」と脊髄反射的リアクションをしながら、シームレスに童心に帰っていく。子供の頃の自分に見せてあげたい、と素直に思った。
映画を観るとき眼鏡をかけてるので、眼鏡の上から3Dメガネをかけていたのだが、「眼鏡という真面目アイテムと、3Dメガネという非真面目アイテムが、がっちりと手を組んだ…!!」って思って、ちょっと気持ちが盛り上がった。

監督●エリック・ブレヴィグ
出演●ブレンダン・フレイザー、ジョシュ・ハッチャーソン、アニタ・ブリエム、セス・マイヤーズほか
上映時間●92分 配給●ギャガ・コミュニケーションズ
【イントロダクション】
アイスランドで地質学の調査を行っていた科学者トレバーと甥っ子ショーン、地元ガイドのハンナは、洞窟の中に突然閉じ込められてしまう。脱出する道を求め地球の奥深く、地底160㎞の世界を旅しながら、3人は巨大な恐竜や未知の植物、磁力で浮かぶ不思議な岩場、荒れ狂う大自然の猛威などに次々と遭遇。さらに地底の火山活動が活発化。急いで地上に戻る道を見つけねば!?
2009年7月16日 [施川ユウキ映画コラム]
施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第12回 20世紀少年
第12回「20世紀少年」
この映画は、ある世代の大人達が、彼等の限定的な文化圏から見た「20世紀」に、けじめを付けようとする物語である。遠い過去に置き忘れてきた、私的な妄想。それが突然目の前に現れ、現実社会を巻き込んであたかも「20世紀」を総括するかように、世界を終わらせていく。「世界を終わらせる」というリアリティの無い言葉自体20世紀の遺物なのだが、大阪万博、アポロ11号、高度経済成長、ハットリくん、鉄人28号、平凡パンチ、そういった数々のキーワードが、古き良きとされた20世紀への決別を意図してるかのように、ドライな空気を纏って登場する。
あの時代の少年達が描いた未来に、良くも悪くも我々は辿りつかなかった。有り得なかった未来をレトロフューチャーな妄想と断じて整理を付けるのが「大人」であるとして、その代表がロックミュージシャンの夢を諦めた主人公ケンヂである。対して、少年の日の妄想世界に現実を引きずり込もうとしているのが「ともだち」だ。そのせめぎ合いが物語を作っていく。
この映画はハリボテの神話である。「悪の組織」が「世界征服」を企んで「巨大ロボット」で破壊の限りを尽くす。テロリズムの政治性や宗教の精神性、事件に説得力を与える社会的背景等を意図的に無視しながら、事態はどんどん前に進んでいく。現実感の無さに、映画が支配されていく。「歴史物語が幾つもの世代を越えていくうちにリアリティを失って神話になる」という過程を、即興ででっち上げたようなハリボテ感が、作品全体を覆う。常に「ともだち」のチープな妄想に映画が寄り添っていて、その絶望感に抗うからこそ、ケンヂ達は主人公たり得るのだ。
原作は、冒頭からワクワクしながら読んだ。「ともだち」の正体と動機が何なのか知りたくて、ページをめくる手が止まらなかった。映画は、監督が語るように原作原理主義を徹底して作られている。既読だったからなのか、映画は初見のワクワク感が薄れてしまい、ある意味確認作業のように観てしまった。群像劇でもあるので登場人物が多数出てくるのだが、2時間22分ではそれぞれを掘り下げて描くのは難しい。ハリボテ世界の世紀末的風景は退屈しないが、全てを映像でじっくりと語る余裕が無く、少し物足りなく感じた。
原作が、3部作の映画じゃとてもまとめられない位、壮大過ぎるのかもしれない。

監督●堤幸彦
出演●唐沢寿明、豊川悦司、常盤貴子、香川照之、石塚英彦、宇梶剛士、宮迫博之ほか
上映時間●2時間22分 配給●東宝
【イントロダクション】
1997年、ケンヂはロックスターになる夢を諦め、コンビニ経営をしながら失踪した姉の赤ん坊の面倒をみていた。巷では「ともだち」と呼ばれる教祖と謎の教団が出現し、怪しい事件が起こり始めた。その事件は、小学生のケンヂが仲間と作った秘密の遊び、悪の組織とそれに対抗する正義の味方が登場する「よげんの書」の内容にそっくりだった。








































