施川ユウキ映画コラムー全ての映画は、ながしかく

2009年7月23日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第13回センター・オブ・ジ・アース

第13回「センター・オブ・ジ・アース」

 子供の頃、飛び出す絵本が大好きだった。高価だった為なかなか買ってもらえなかったので、本屋に連れて行ってもらった時ボロボロになったサンプルをいつまでもいじり回していた。平行法やら交差法やらで立体視できるCG集が流行った時も、毎日のように本屋に通って頭痛がするまで飛び出し具合を堪能した。ホログラムのシールも好きだった。ビックリマンシールを集めていて、「魔肖ネロ」という、顔の部分がホログラムで印刷されたレアシールを宝物にしていた。いつも顔部分を指で触っていた。よくわからないが魔肖ネロになりたいとさえ思った。とにかく僕は「飛び出てくる(ように見える)物」が大好きだった。今も好きだ。
 本作「センター・オブ・ジ・アース」は、そんな僕の「飛び出て見える欲」を十分満足させてくれる3D映画だ。映画というよりもアトラクションに近い。
 迫力ある映像で観客に疑似体験させるアトラクション型ムービーを観ていると、「元々、『映画』ってこういう物だったんだろうな…」と思えてくる。こういうタイプの映画は、できるだけ大きなスクリーンで観るべきだ。
 逆に、セリフや演出から自分なりに解釈を楽しむタイプの言語的で知的な映画は、スクリーンのサイズがでかくなればでかくなる程、でっかいフォントで難読漢字を読まされてるような気分になる。「ほら!でかいから読めるでしょ!」みたいな、馬鹿にされてる気分だ。大スクリーンの劇場で、小難しい地味な文芸作品を頭をひねって観るのは、考えようによっては奇妙な行為なのかもしれない。そんな事まで考えてしまった。
 この作品は、映画というメディアが本来持つ見世物小屋的な楽しみ方を思い出させてくれる。「トロッコ速えー!」「気持ち悪い魚飛び出てきた!」「恐竜出たー!怖えー!」と脊髄反射的リアクションをしながら、シームレスに童心に帰っていく。子供の頃の自分に見せてあげたい、と素直に思った。
 映画を観るとき眼鏡をかけてるので、眼鏡の上から3Dメガネをかけていたのだが、「眼鏡という真面目アイテムと、3Dメガネという非真面目アイテムが、がっちりと手を組んだ…!!」って思って、ちょっと気持ちが盛り上がった。

監督●エリック・ブレヴィグ
出演●ブレンダン・フレイザー、ジョシュ・ハッチャーソン、アニタ・ブリエム、セス・マイヤーズほか
上映時間●92分 配給●ギャガ・コミュニケーションズ
【イントロダクション】
アイスランドで地質学の調査を行っていた科学者トレバーと甥っ子ショーン、地元ガイドのハンナは、洞窟の中に突然閉じ込められてしまう。脱出する道を求め地球の奥深く、地底160?の世界を旅しながら、3人は巨大な恐竜や未知の植物、磁力で浮かぶ不思議な岩場、荒れ狂う大自然の猛威などに次々と遭遇。さらに地底の火山活動が活発化。急いで地上に戻る道を見つけねば!?

2009年7月16日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第12回 20世紀少年

第12回「20世紀少年」

 この映画は、ある世代の大人達が、彼等の限定的な文化圏から見た「20世紀」に、けじめを付けようとする物語である。遠い過去に置き忘れてきた、私的な妄想。それが突然目の前に現れ、現実社会を巻き込んであたかも「20世紀」を総括するかように、世界を終わらせていく。「世界を終わらせる」というリアリティの無い言葉自体20世紀の遺物なのだが、大阪万博、アポロ11号、高度経済成長、ハットリくん、鉄人28号、平凡パンチ、そういった数々のキーワードが、古き良きとされた20世紀への決別を意図してるかのように、ドライな空気を纏って登場する。
 あの時代の少年達が描いた未来に、良くも悪くも我々は辿りつかなかった。有り得なかった未来をレトロフューチャーな妄想と断じて整理を付けるのが「大人」であるとして、その代表がロックミュージシャンの夢を諦めた主人公ケンヂである。対して、少年の日の妄想世界に現実を引きずり込もうとしているのが「ともだち」だ。そのせめぎ合いが物語を作っていく。
 この映画はハリボテの神話である。「悪の組織」が「世界征服」を企んで「巨大ロボット」で破壊の限りを尽くす。テロリズムの政治性や宗教の精神性、事件に説得力を与える社会的背景等を意図的に無視しながら、事態はどんどん前に進んでいく。現実感の無さに、映画が支配されていく。「歴史物語が幾つもの世代を越えていくうちにリアリティを失って神話になる」という過程を、即興ででっち上げたようなハリボテ感が、作品全体を覆う。常に「ともだち」のチープな妄想に映画が寄り添っていて、その絶望感に抗うからこそ、ケンヂ達は主人公たり得るのだ。
 原作は、冒頭からワクワクしながら読んだ。「ともだち」の正体と動機が何なのか知りたくて、ページをめくる手が止まらなかった。映画は、監督が語るように原作原理主義を徹底して作られている。既読だったからなのか、映画は初見のワクワク感が薄れてしまい、ある意味確認作業のように観てしまった。群像劇でもあるので登場人物が多数出てくるのだが、2時間22分ではそれぞれを掘り下げて描くのは難しい。ハリボテ世界の世紀末的風景は退屈しないが、全てを映像でじっくりと語る余裕が無く、少し物足りなく感じた。
 原作が、3部作の映画じゃとてもまとめられない位、壮大過ぎるのかもしれない。

監督●堤幸彦
出演●唐沢寿明、豊川悦司、常盤貴子、香川照之、石塚英彦、宇梶剛士、宮迫博之ほか
上映時間●2時間22分 配給●東宝
【イントロダクション】
1997年、ケンヂはロックスターになる夢を諦め、コンビニ経営をしながら失踪した姉の赤ん坊の面倒をみていた。巷では「ともだち」と呼ばれる教祖と謎の教団が出現し、怪しい事件が起こり始めた。その事件は、小学生のケンヂが仲間と作った秘密の遊び、悪の組織とそれに対抗する正義の味方が登場する「よげんの書」の内容にそっくりだった。

2009年7月8日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第11回崖の上のポニョ

第11回「崖の上のポニョ」

 「2008年夏、日本だけでなく世界の人々が自信を失い、経済政策の行き詰まり、食料や原油価格の高騰、地球の温暖化問題など、解決の糸口さえ見つけられず、不安を抱きながら漫然と生きている現代…」
 上の文章はパンフレットに書かれてた作品説明の出だしだ。上映開始前に度肝を抜かれた。小さい子供向けの「わんぱくゆかいなまんが映画」を想像していたが、この文章は全く違うものを想像させられる。宮崎駿監督は本作の意図をこう語る。「神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」そのメッセージは、何かとてつもない物を目撃させられる覚悟を、観客に促す。「ぽーにょ、ぽーにょ、ぽにょ」歌ってる場合じゃない。
 上映終了。奇妙な映画だった。キャラも設定も世界観もストーリーも構成も、何もかもが奇妙だ。ポニョが何なのか、フジモトやグランマンマーレが何者なのか、わからない事だらけだし、舞台も日本の何処かという感じがしない。外側に世界地図を全くイメージできないし、主人公宗介が住む崖の上の家の為だけに用意された童話的港町だ。
 物語の冒頭、宗介が少女になったポニョではなく、魚の姿のポニョをいきなり好きになる。有無を言わさず運命的に。「もしかしたら、この魚オスかも」とか微塵も考えさせない。それは奇妙と言うか、作品全体を覆う大きな不安の原因になっている。「宗介の好きはLOVEじゃなくて、LIKEなのではないか?」という問題だ。作中、宗介がポニョに対して頬を赤らめてドギマギするような場面は無いし、重要なキスシーンもポニョの方からしている。演出意図があったとして、そこに示されているのは、宗介は「恋」よりも「責任」によってポニョと結ばれるという、五歳児のボーイミーツガール物としては掟破りとも言える生々しい恋愛観であり結婚観だ。対照的にポニョは、「恋」で無ければ説明が付かない程の圧倒的なエネルギーで、地獄の押しかけ女房ぶりを炸裂させる。
 うねる漆黒の波、落ちる月、世界の終わりを思わせる絶望的風景の視覚的ダイナミズムに彩られ、爆発するポニョの恋。暴風雨を巻き起こし、膨れ上がらせた海の上を疾走する彼女の姿に、「神経症と不安の時代」に立ち向かう力は仮託されている。車を走らせて波から逃げ回る母親の手から、宗介を奪うかの如く迫る、ポニョのプリミティブな勇ましさと横暴さ。衝動に殉ずる迷いの無さ。そして神々しさ。この嵐のシーン以外あまり印象に残らなくなってしまう位、見応えがあった。
 町が水没して以降のシーンは、死後の世界のような不気味な穏やかさと静けさが延々と続く、長い長いエピローグのように思えた。ポニョの瞬間最大風速的な情熱を描いた、前半部分の派手さに対して、責任を持って全てを受け止める宗介の覚悟と、この先淡々と延長されていくはずの二人の日常が、恐らく後半部分の地味さには込められている。
 とにかく度肝を抜かれた。「ぽーにょ、ぽーにょ、ぽにょ」歌ってる場合じゃない。


監督●宮崎 駿
出演●山口智子、長嶋一茂、天海祐希、所ジョージ、奈良柚莉愛、土井洋輝ほか
上映時間●101分 配給●東宝
【イントロダクション】
崖の上の一軒家に住む5歳の少年、宗介は、ある日、クラゲに乗って家出したさかなの子、ポニョに出会う。アタマをジャムの瓶に突っ込んで困っていたポニョを、助けた宗介。そんな宗介のことを好きになったポニョが、人間になりたいと願ったため、海の世界は混乱に陥り、人間の町に大洪水を引き起こすことに…!?

2009年7月2日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第10回インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国

第10回「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」

 19年ぶりに復活したインディ・ジョーンズ。「あれから19年か…時代も変わったな」って思ったら、舞台がまだ冷戦時代だったので驚いた。前作観たのが子供の頃だったからか時代背景がよくわかってなかったらしい。
 そのお陰で、良くも悪くも「歳を取ってIT時代に置いてかれるインディ」みたいなアングルが成立せず、若々しさ溢れる活劇を堪能できた。「あの名作が○○年ぶりに帰ってきた」みたいな作品が最近多いけど、概ね昔のままだ。「もうあの頃とは違うんだ…」みたいな切ない「劇画オバQ」スタイルも、そろそろハリウッド大作で観てみたい。ファンが許さないだろうし需要もなさそうだけど。
 物語は、秘宝をめぐって悪い奴らから逃げながら大冒険する黄金パターン。展開、アクション全てに「古き良き」を付けたくなる。舞台が21世紀だったら赤面してたかもしれないけど、時は1957年。ノリノリで楽しめた。
 キャスティングは、ケイト・ブランシェット演じるソ連のクールビューティー工作員スパルコのキャラが立ちまくっていて、「悪役チームって他に誰かいたっけ?」と思うくらい釘付けにさせられた。他の出演キャラ全員食われてたかもしれない。髪型や制服も印象的で見た目からしてマンガチックだったので、両隣に「怪力担当の小男」と「メカに詳しい出っ歯」を配して、サドっ気を発揮しながらドクロストーン(クリスタルスカル)を追いかけて欲しい…とか、妄想させられた。実際そこまでする必要は無いけど、悪役チームが物足りなかったのは確かだ。それから役者ではなく脚本上の問題だけど、スパルコは共産主義を象徴する位置づけのキャラでもあるから、最後まで国家への忠誠心を行動の軸に置いて欲しかった。後半、そこがどうでも良くなっていて残念に思えた。
 全体を通して既視感たっぷりの作品ではあったものの、妙に印象に残ったシーンが二箇所あった。「軍隊蟻に襲われるシーン」と「核実験場のシーン」だ。軍隊蟻の場面では、昔「黒い絨毯」という殺人蟻の大群に襲われるパニックムービーがあったのを思い出させられ、核実験場ではマネキンの町に紛れ込んだ気味の悪さを心地よく感じさせられ、どちらのシーンでも「コレでもう一本映画作ってくれ!」と思わず言いたくなった。両方スピルバーグっぽいアイデアなんだが、そう思わせる力量はさすがだ。
 さっきスパルコにドロンジョを重ねてしまったのは、核実験の場面でキノコ雲を見たからだと今気付いた。

「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」
監督●スティーブン・スピルバーグ
出演●ハリソン・フォード、シャイア・ラブーフ、ケイト・ブランシェット、カレン・アレンほか
上映時間●2時間2分 配給●パラマウント ジャパン
【イントロダクション】
旧ソ連が台頭した1950年代の冷戦時代を背景に、超常現象的な古代の遺物を求めるインディ。彼が探し求める秘宝は、ヒーリングのパワーや宇宙の神秘を紐解く力を持つというクリスタル・スカル。そこに立ちはだかる冷酷非道なソ連軍のエージェント、スパルコ。インディは敵から逃れ、秘宝を手に入れることが出来るのか、そしてスカルに秘められた謎とは? 最大の冒険と戦いが始まる!

2009年6月25日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第9回ザ・マジックアワー

第9回「ザ・マジックアワー」

 「笑った」「笑えなかった」の基準は個人差があるため、コメディ映画を客観的な視点でレビューするのは難しい。どう書いても単なる個人的な感想になってしまう。それを考慮した上で、批評的な視点をなるべく失わないように、自分の抱いた感想をそれなりに理屈っぽく解釈していきたいと思う。
 三谷幸喜作品は割と好きでドラマも映画も結構観ているのだが、本作は今までで一番笑わされた。最初の印象としては、前作「THE有頂天ホテル」のような「何も考えずに観て、老若男女が楽しく笑って帰る」タイプのライトなエンタメ映画である。しかし後になって、これはかなりギリギリのラインで笑いを追求しているストロングスタイルのコメディだったのではないかと思い直した。
 三谷作品のような、「勘違い」や「すれ違い」によって起こるドタバタ喜劇の追求するギリギリのラインとは、「状況が成立する説得力をどの地点まで保てるか」にあると、自分は思う。状況が成立しやすい日常的なシチュエーションである程笑いは緩くなるし、かと言って非日常に行き過ぎてしまうと説得力を失い、観てる方は冷めて笑いも失ってしまう。そういう見地で観た時、この映画は大前提として仕掛けている勘違いの設定がかなり大胆で、それはギリギリのラインに肉迫していると断言できる。
 巻き起こる事件全てが映画の撮影だと騙される俳優と、その俳優を伝説の殺し屋だと思い込んでしまうギャング達。自分は「そんな強引な勘違い成立する筈が無い」と展開を見守りながらも、思いっきり爆笑させられた。説得力を持ってそれが見事に成立しているのだ。練りに練った脚本、役者の演技力、セットのような街並で演出された世界観、全てがその状況に説得力を与えるよう、秀逸に作り込まれている。
 そして、そこが「ギリギリのラインである」となぜ判断したのかと言うと、自分は最後の大オチで笑えなかったからだ。急に「それは無い」と冷めてしまった。多分、自分の中でのラインを超えてしまったのだろう。ただ、そのラインは個人個人微妙に違う場所に引いてあって、最後が一番笑えるという人もいるだろうし、もっと前の時点で冷めてしまう人もいるかもしれない。「笑えた」「笑えなかった」の個人差は、きっとそこに現れるのだと思う。
 散々笑わされたこの作品を、最後の最後で笑えなかったからこそ、僕は支持したい。この作品は緩くない。

「ザ・マジックアワー」
脚本と監督●三谷幸喜
出演●佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、綾瀬はるか、西田敏行ほか
上映時間●2時間16分 配給●東宝
【イントロダクション】
舞台は港町・守加護(すかご)。知らないうちに“伝説の殺し屋”に仕立て上げられた売れない俳優・村田大樹。映画の撮影だと思い込んでいる彼にとって、その街で起こることは、すべて映画のなかの出来事。ゴム製の拳銃片手に本物のギャングたちと渡り合うことになる村田。誤解が誤解を呼び、やがて事態は誰もが予想しなかった方向へ…。

2009年6月18日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第8回ランボー 最後の戦場

第8回「ランボー 最後の戦場」

 今回のランボーは、軍事政権の圧政下にあるミャンマーを舞台に、前作までとは比べ物にならない位生々しく凄惨な戦闘を軍相手に繰り広げる。
 「ミャンマーで現実に起こっている虐殺を世の中に訴えたい」というスタローンの意向があると聞いた時、正直「説教臭や解説臭のプンプンするややこしい映画なのかなあ」と不安に思ったのだが、蓋を開けてみたら全然違った。驚くほどシンプルだ。ミャンマーの政治的背景や歴史的背景については誰も全く語っていない。冒頭に断片的なニュース映像が多少あるのみだ。ストーリーは、捕らわれた宣教師達をランボーと5人の傭兵部隊が救出するという単純なもの。特に目を見張るような展開は無い。更に言えば、今までのようなランボーの非現実的で超人的な活躍も、激しい感情の発露も無い。あるのは状況だけだ。「殺戮者を殺戮する」という状況。一言も語らずに、そのストレートな状況描写だけで、背景にあるミャンマーの重い現実を見せ付けられる。「どんな事があっても人殺しは許されない」と断言していた宣教師も、その圧倒的な状況を目の当たりにして何も言えなくなる。「痛ましい状況だ」とか「生き残る為には仕方ない」とか何らかのリアクションを待ってたんだが、最後まで何も言わなかった。ランボーもまた虚しい表情をするだけで状況に対しては無言だ。
 しかし、こんなにも言葉数の少ない映画にも関わらず、怒りや悲しみや強烈なメッセージが作品からヒシヒシと伝わってくる。それはランボーの怒りや悲しみというより、スタローン自身の怒りであり悲しみである。「地球上で最も報道されていなくて、最も生々しく破壊的な人権侵害が行われているのはどこか?」スタローンはリサーチを重ね、ランボーの最後の戦場にミャンマーを選んだ。ミャンマーの少数民族への迫害は、現在進行形で行われている悲劇である。彼らの境遇を代弁すべくランボーが立ち上がる訳だが(物語上は拉致された宣教師の救出が目的だが)、架空のヒーローであるランボーにミャンマー軍を全て壊滅させる訳にはいかない。ひとつの戦いを終えた後、何も語らず虚しい表情を見せ、状況への解釈を観客に託す事しか出来ないのだ。
 「殺戮者を殺戮する」という状況のみを、語らずに提示する。その静かさに、ミャンマーの現状に対するスタローンの怒りや悲しみが真剣であると、強く感じる事が出来た。

「ランボー 最後の戦場」
監督●シルベスター・スタローン
出演●シルベスター・スタローン、ジュリー・ベンツ、ポール・シュルツほか
上映時間●90分 配給●ギャガ・コミュニケーションズ
【イントロダクション】
ミャンマー軍による少数民族への迫害が激化する国境で、ランボーは戦いから遠ざかり淡々と日々を生きていた。しかしある日、支援のため、アメリカから宗教組織の一員のサラという女性が現れる。その熱意に折れ、目的地の村まで送ったものの、本拠地に戻った彼に、サラたちの到着した村が軍に襲撃されたという知らせが届く。救出部隊の傭兵5人にランボーが加わった…。

2009年6月11日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第7回フィクサー

第7回「フィクサー」

 この作品は、ある大手製薬会社に対する3千億円にのぼる薬害訴訟事件をめぐって、弁護士マイケル、上司であるマーティ、同事務所のエリート弁護士アーサー、そして、製薬会社の法務担当カレンが如何に判断し行動するかを描いた、一言で言うと「大人達が必死な映画」である。主要キャラに若者はほとんどいない。大人だらけだ。
  「大人だらけ」と言われても、大人と若者を何処で分けてるのかピンと来ないかもしれない。「相応に年を重ねている」「分別がある」「落ち着いた雰囲気を持っている」「複雑に物事を考えている」だから大人かと言えば多分そうではない。僕がこの映画を観て思うに大人とは、ある種の社会的立場であったり、資産や負債であったり、妻や子供であったり、人生を決定付ける大きな物を「既に獲得してしまった人々」の総称なのではないだろうか。逆に言えば「これから獲得しようとしている人々」が若者だ。
 本作に登場する主要キャラの中で、若者は原告である農家の娘アンナだけだ。裁判で賠償金を獲得する事が彼女の人生の目的となっている。アンナ以外の登場人物は、マーティもアーサーもカレンもカレンの上司もマイケルもマイケルの顧客達も皆「既に獲得してしまった人々」だ。彼等の人生の目的は獲得してしまった物を守る事であり、周囲からもそうあるべきと求められている。もし、その行動が善悪という価値基準と衝突した時、正義を選択する事は彼等にとって破滅を意味する。多くの人を巻き込んで全てを失う。獲得してしまった物が大き過ぎる「大人達」は、当たり前であるべき正義を容易には選べないのだ。そんな中、良心の呵責に耐えかねたアーサーは正気を失って正義を選択しようとする。正気を失わないと正義を選べないというのは皮肉な話だが、結果アーサーは消され、それを知ったマイケルは徐々に正義へと目覚めていく。
 この映画は、冒頭で起こった自動車の爆破シーンから突然4日前に遡り「なぜそうなったのか」を延々描いていく、という構造を持っている。起こってしまった事の辻褄を合わせていく演出は、もみ消し屋(フィクサー)であるマイケルの仕事と重なって見える。物語の組み立て方を含め、所々に「手遅れ感」の漂う物悲しい大人の映画だった。

「フィクサー」
監督●トニー・ギルロイ
出演●ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソンほか
上映時間●120分 配給●ムービーアイ
【イントロダクション】
巨額の薬害訴訟において、被告である巨大製薬会社有利に解決されようとしていた最中、製薬会社の弁護を担当する同僚がすべてを覆す秘密を握ってしまう。暴露を恐れた事務所は“フィクサー”であるマイケル・クレイトンにもみ消しを依頼する。活動を開始したマイケルに知らされた同僚の不審死。その真相を追究する内、彼は隠蔽工作に留まらぬ予想をはるかに超えた陰謀の存在に気づく。

2009年6月4日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第6回ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

第6回「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」

 映画が始まって冒頭20分、全くセリフの無いまま主人公ダニエル・プレインビューが黙々と採掘現場で作業を続けるシーンをいきなり見せ付けられ、引き込まれる。こうして物語は静かに幕を開けるが、BGMが鳴り出すと、荒野の詩的で雄大な映像とはまるで合わない、ホラー映画を思わせる不穏で奇妙な旋律の音楽が奏でられ、戸惑わされる。それから2時間半後、物語は余韻を感じさせる間も無く唐突に終わる。
 思いっきり内容を端折って書いたが、この映画で僕が衝撃を受けたのは冒頭とラスト、そして音楽だ。導入部分、骨太な演出に「ああ、これはカリスマ採掘師を描いた映画だな」と、その意図を安易に推察する。しかし、話が進んでいく内に意外とそうではない事に気付く。ダニエルは野心家ではあるが、人間としての器は小さい。他人を信用しないし、人生の色々な局面で「駄目だコイツ…」と言いたくなるような愚かな選択をしてしまう。ダニエルの人間不信で寄る辺ない心の不安定さは、全体を通して流れる不協和な音楽や強烈な効果音によって、彼の破滅的な未来を暗示しつつ表現される。
 物語は進み、ダニエルは苦労の末、石油業で何とか成功を収め豪華な屋敷で独り老後を迎える。そこで映画もラストを迎える訳だが「そんな終わり方をする為に、ここまで大掛かりな一大叙事詩を長々と撮ったのか!?」と監督に問い詰めたくなる位、幕の引き方は馬鹿馬鹿しく呆気ない。「そんなくだらない事をする為の人生だったのか?」という、ダニエルへの虚しい問いかけを意味するかのような大胆な演出だ。冒頭で長々と映された、寡黙で雄々しい姿とは余りにも対照的である。そして劇中とは打って変わって心地良い華やかな曲が、エンドロールと共に流れる。ダニエルの滑稽な晩年を祝福するように。
 映画全体は重々しく孤独と非情に満ちて溢れているが、ラストのせいで「これは壮大な喜劇だったんじゃないか」という不思議な感想を持った。ダニエルの宿敵である牧師の過剰なパフォーマンス、所々に挿入されるビンタシーン、終盤の下品なやり取り、思い返せば全てが質の高いコントのようだ。最後の最後で印象がひっくり返ってしまった。
 人生はすべからく喜劇である。僕はこの映画を、強引だけどそう解釈したくなった。衝撃的な映画だ。

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」
監督●ポール・トーマス・アンダーソン
出演●ダニエル・デイ・ルイス、ポール・ダノ、ケヴィン・J・オコナーほか
上映時間●2時間38分 配給●ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン
【イントロダクション】
20世紀初頭のカリフォルニア。しがない鉱山労働者であったダニエルは、石油採掘によって富と権力を手に入れる。しかし、大地から噴き出す石油はダニエルの魂を毒し、強欲、誘惑、腐敗、欺瞞といった悪徳を糧に、人との共存が不可能な欲望のモンスターへと変化させていく。その先にある破滅の予感を漂わせながら…。アメリカン・ドリームの闇をえぐる鮮烈なる大河ドラマ。

2009年5月28日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第5回 アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生

第5回「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」

 この映画は、アニー・リーボヴィッツという女流写真家の人生を追ったドキュメンタリー作品だ。自分は映画の本質は演出だと思っている人間なので、ドキュメンタリーを映画として語るのは苦手だ。演出について敢えて言うなら、本作は彼女の人生を冷静に淡々と時系列で追ったというより、断片を感覚的に繋げて一つにまとめたという印象が強い。鑑賞後、走馬灯を見るようにアニー・リーボヴィッツの仕事を追体験した気分になった。彼女は自分とは真逆のタイプの人間なので、それが新鮮に楽しめた。
 アニーやアニーの関係者へのインタビューが続く中、彼女の撮った作品が次から次へとフラッシュバックのように映し出される。それがこの映画の基本構成だ。どの写真も印象的であるのは当然なのだが、インタビュー中に語られる言葉もまたフックのある断片として後に残る。
 「大切な人を二人失い、三人を授かった。それが人生」「車の中で育てば芸術家にもなる。車窓というフレームから世界を見てるんだもの」「移動が好きなの。次の場所に移動していれば満足よ」「空気のような存在になれば自由に写真が撮れる」「彼の骨を撮りたかった」「彼女は、母なる地獄」
 映像や言葉も、写真のように断片としてピックアップすると、表現としての強度が強まったり弱まったりする。目まぐるしくスクリーンに現れる無数の写真を見ながら、瞬間を捉える表現について、写真家という仕事について、ひいては自分自身の仕事についてまでも、色々と考えさせられた。
 彼女はその時々の有名人を被写体に、インパクトのある写真を撮り続け成功する。彼女の捉えた「瞬間」はカメラのシャッター幕が開く露光の瞬間ではなく、時代の瞬間そのものだ。
 「もし自分が有名人になって『いいとも』のテレフォンショッキングに呼ばれたら、誰を紹介しよう…」とか「『食わず嫌い王』に出たら、どの食材を指定しよう…」とか妄想する事があるけど、アメリカ人は「アニーに撮られるとしたら、どんな写真になるんだろう」等と思い描いたりするのかもしれない。
 深い思索を促される一方で、そんな事も考えさせられるポップさも併せ持った映画だった。

「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」
監督●バーバラ・リーボヴィッツ
出演●オノ・ヨーコ、デミ・ムーア、ミック・ジャガー、キース・リチャーズほか
上映時間●83分 配給●ギャガ・コミュニケーションズ
【イントロダクション】
世界的な活躍を続ける写真家アニー・リーボヴィッツ。暗殺の数時間前、裸でオノ・ヨーコに寄り添うジョン・レノン。妊娠中に雑誌の表紙をヌードで飾ったデミ・ムーア。ミュージシャン、映画スター、政治家、ダンサー、スポーツ選たちが彼女の前で心を開き、思いもよらぬ表情を見せる。華々しいキャリアを持つ彼女の人生と原動力を、セレブリティ100人の証言や、撮影裏話を基に描き出す。

2009年5月21日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第4回 アメリカン・ギャングスター

第4回「アメリカン・ギャングスター」 

 1970年代のニューヨークを舞台に、麻薬王フランク・ルーカスと麻薬捜査官リッチー・ロバーツという実在した人物をクローズアップして描いたクライムストーリー。ギャング映画ではあるものの比較的バイオレンス色は薄めで、どちらかと言うと「ガイアの夜明け」でも観てるような経済色の強い話だった。
 フランクは、安価で純度の高いヘロインの供給を既得権団体であったマフィアを介さない事で実現させるべく、生産地であるタイの奥地まで単身買い付けに行く。商談を成立させ、流通を確保し、一貫した商品管理が可能なシステムを作り上げる。そしてビジネス展開が軌道に乗ってきたら販路を拡大させ、更にはブランドマネジメントまで手掛けた。
 黒人のフランクが、組織に頼らずたった一人で築き上げたビジネスモデルとそれによる成功が象徴しているものは、「アメリカン・ギャングスター」の正に「アメリカン」の部分だ。自由主義経済が抱く可能性そのものである。商品が麻薬だった事を除けば、彼の起業プロセスはクレバーでアメリカ的正しさを持っているし、そのアメリカンぶりは彼のライフスタイルからも容易に窺える。上品にスーツを着こなし、健全で規則正しいストイックな生活を心がけ、厚い信仰心を持ち、家族を大事にする。理想とされるエリートビジネスマンのイメージそのまんまだ。
 そんな華やかなフランクとは対照的に、彼を追う刑事リッチーの置かれている状況は暗い。警察内は不正がはびこり、唯一人正義を貫くリッチーは周りから疎まれている。相棒のジェイは麻薬に走り中毒死を遂げ、プライベートでも離婚した妻を相手に息子の養育権をめぐって裁判中だ。警察の不正、離婚、麻薬中毒死。彼の周辺もまた負の面でアメリカを象徴しているが、フランクと違ってやたら生々しい。
 麻薬の匂いをさせない麻薬王のスマートなエグゼクティブイメージ。正義が蔑ろにされる警察の汚れきった現実。この映画はそんな二つのアメリカを両側から描きつつ、ゆっくりと肉薄させていく。やがて両者は静かに対面を果たし、アメリカ社会に大きな衝撃と変革をもたらす事となる。
 時代に依存したフランクの不安定で胡散臭い成功と、地を這うように生きるリッチーが勝ち取った確固たる正義に、虚実ない交ぜのまま動いていくダイナミックなアメリカを見せ付けられた気がした。

「アメリカン・ギャングスター」
監督●リドリー・スコット
出演●ラッセル・クロウ、デンゼル・ワシントン、キウェテル・イジョフォー、キューバ・グッディングJrほか
上映時間●2時間37分 配給●東宝東和
【イントロダクション】
ハーレムを仕切るギャングのボスに15年間仕えてきた運転手のフランクはボス亡き後、一匹狼として生きることを決意。ベトナム戦争の軍用機を利用して麻薬を生産者から大量に仕入れ、安価で大衆に販売する戦略により麻薬王の座に上り詰める。派手な行動を慎んだことでその正体は誰にも気付かれずにいたが、特別麻薬取締局のリッチーが疑惑の目を向ける。

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