施川ユウキ映画コラムー全ての映画は、ながしかく

2009年8月13日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第16回ベンジャミン・バトン 数奇な人生

第16回「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

 「死」を思う映画だった。
 ベンジャミン・バトンの生涯は、死から死へと向かう孤独で静かなる旅だ。80歳の姿で生まれ、死を自然に受け入れる老人達の中で育った彼は、人の死に対して受容的な感覚を持っている。同時に「永遠は無い」という事を誰よりも心得ていて、人生に対しある種の虚しさを感じている。
 生まれると同時に母親が亡くなる所から、彼の生い立ちは始まる。拾われた先の老人ホームで周りの老人達が死に、彼の世界を広げたマイク船長が目の前で戦死し、仲間達も死に、彼を捨てた実の父親トーマスが病死し、育ててくれた母親代わりのクイニーが死に、数々の死と対面する。そして映画は、最愛の恋人で語り部役のデイジーの死と共に幕を閉じる。
 「もし、人が80歳で生まれ、ゆっくりと18歳に近づけていけたなら、人生は限りなく幸福なものになるだろうに」
 この言葉にインスピレーションを受けて、F・スコット・フィッツジェラルドは原作となる短編小説を書いたという。
 しかしベンジャミンの人生は、決して幸福と呼べるものではない。人々が老いていく中、自分だけが若返っていく。それは、出会う全ての人間とすれ違っていかざるを得ない寂しさを、一生抱え続ける人生だ。そして恋人のデイジーもまた、自分だけが老いていく悲しさからは逃れられない。だからこそ、たった一度しか訪れない二人の年齢が重なる一瞬は、奇跡のように甘美な時間となる。
 その先は、互いに遠ざかっていく事が決定付けられている。ベンジャミンは、何かを成し遂げようとするモチベーションを持たない。生き方はひたすら静かだ。人生のピークは、デイジーと共に生きた僅かな一時にある。それは美しいけど、以降彼女の元を去り、若々しい体を手に入れながら惰性で死に向かっていく晩年は、あまりにも悲しく思えた。
 劇中「7回落雷にあって生きている男」が登場し、落雷にあった状況をボソッと語る場面がコメディ要素として度々描かれている。実はこの男性は実在した人物で、7回落雷にあった後、失恋で自殺したらしい。
 「数奇な人生はどこにでもある物だ」と言外に語る彼の存在は、ベンジャミンの小さな救いの一つになっていたのかもしれない。

監督●デビット・フィンチャー 脚本●エリック・ロス
出演●ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット、タラジ・P・ヘンソン、ティルダ・スウィントンほか
上映時間●167分 配給●ワーナー・ブラザーズ映画
【イントロダクション】
1918年、ニューオーリンズ。黒人女性クイニーは置き去りにされた赤ん坊を拾う。ベンジャミンと名づけられたその男の子は、すぐにクイニーが営む施設の老人たちのなかに溶け込んだ。彼は80歳の姿をしていたのだ。養母の惜しみない愛情に包まれて、彼は成長する。車椅子から立ち上がって歩き出し、しわが減り、髪が増え、日に日に若返っていった。80歳で生まれ、若返っていく。数奇な人生を生きた、ある男の物語。

2009年8月6日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第15回ワールド・オブ・ライズ

第15回「ワールド・オブ・ライズ」

 「ヒ、ヒゲが…様になってる!」
 映画が始まって、まずディカプリオの顔つきに驚く。
 彼が、子供が付けヒゲしたような奇妙な容貌をウダウダと続けている状況について、僕はここ数年釈然としないでいた。「タイタニック」以降ついてしまった優男イメージを払拭する為の「ヒゲ」だったのかも知れないが、結果的に「似合わないヒゲを生やした童顔男」のイメージで、僕の中では完全に定着してしまっていたのだ。
 しかし、今作「ワールド・オブ・ライズ」のディカプリオは、一瞬誰だかわからない位ステキヒゲ男になっていて、舞台である中東にも違和感無く馴染んで見えた。単に観る側の僕自身が、彼のヒゲ面に慣れてしまっただけなのかもしれないけど、だとしてもなかなか出来る事ではない。受けないギャグを受けるまで言い続けるようなものだ。ヒゲがしっくりきたせいか、役者としての力量も格段に上がっているように見えて、これでもかと言う位ディカプリオの勇姿を堪能できた。ラッセル・クロウも役作りの為に2
8キロ増量して挑んだそうだが、活躍の場が少なく、完全にディカプリオの映画になっている。
 内容を一言で言うと、「現在の中東はこんなにも混沌としている!」という現状報告映画だ。CIAの上司や他国の諜報部やテロ組織。何が事実かわからない情報戦の渦中で悪戦苦闘するディカプリオ。常に「混沌とした状況」を演出する事に主眼を置いて、脚本が書かれているように感じた。「アメリカの正義」といった大義すら怪しく、主人公のモチベーションも不安定で、混沌ぶりに拍車をかける。現代をサヴァイヴする我々に対して、「これを信じろ」という答えを出さない、真面目でドライな作品になっている。ただ、ドライ過ぎて少し物足りなくも感じた。似た関係性の映画で、監督の実弟トニー・スコットが撮った、捕虜になったCIA工作員の部下(ブラッド・ピット)を上司(ロバート・レッドフォード)が情報局を欺いて救出する傑作「スパイ・ゲーム」を思い出す。そっちの方が個人的には好きなんだけど、今の世界情勢ではこういう熱いスパイドラマは空々しく見えてしまうのかもしれない。
 スパイ物は時代を反映していて面白い。我々は今、ディカプリオにヒゲが似合う時代を生きている。

監督●リドリー・スコット 脚本●ウィリアム・モナハン
出演●レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウ、マーク・ストロングほか
上映時間●128分 配給●ワーナー・ブラザーズ映画
【イントロダクション】
人命よりも情報が重んじられる世界で、様々な作戦を遂行するべく世界を駆け回って活動する、CIAの敏腕工作員ロジャー・フェリス。彼の命運は、現場から離れた安全な場所からノート型パソコンを通して作戦を展開させるベテラン局員、ホフマンが左右する。そんな中、中東のテロ組織のリーダーを追うフェリスは、対象に近づくほど、自分を救うはずの信頼が彼の命を危険にさらすと気づいていく…。

2009年7月30日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第14回バンク・ジョブ

第14回「バンク・ジョブ」

 この映画は、1971年にイギリスで実際にあった銀行強盗事件が元になっている。「実話」というのが最大の売りなんだが、どこまで本当なのか鑑賞後調べたくなるくらい衝撃的なストーリーだった。簡単に解説すると、犯人たちが貸し金庫内から盗み出した金品の中に、エセ左翼活動家が政府を脅すために隠し持っていたマーガレット王妃のスキャンダル写真が含まれていて、「実は強奪事件は、MI5(日本で言う公安)がその写真を回収するために画策したものだった!」という陰謀渦巻く内容だ。実際、当時連日トップニュースで報じられていた程の強奪事件だったのに、突如報道規制がしかれ「なかった事」にされてしまったらしい。
 真相はともかく、映画自体は素晴らしい出来だった。スタイリッシュな映像、スリリングな脚本、魅力的な登場人物達、エンターテインメント作品として完璧な仕上がりになっていて、すっきりした気分で試写室を後にする事が出来た。紋切り型の表現でしか賞賛出来てないんだけど、特にビッグスターが出てる訳でも無く、目新しい映像表現がある訳でもない本作の、どこが特筆すべき点なのかと言うと、それは恐らく「バランスの取り方の巧みさ」だと思う。
 映画全体を通して、各キャラクター各シークエンスは絶妙なバランスで構成されている。それらは、ハリウッド大作でよく見られる、キャラ立てまくり緩急付けまくりの派手派手演出ジェットコースター構成とは真逆にある、飽くまで「抑えて抑えて」の演出で美しく調整されたバランスだ。各キャラは強く印象に残るほど突飛な個性を付けられて無いし、物語もサービス過剰な寄り道をしない。強盗団、MI5、マフィア、警察、それぞれの思惑は交錯するが、複雑になり過ぎず適度に知性を刺激させられる程度だ。全ての面でやり過ぎないようにしながら、華麗に全体のバランスが取られているように感じた。
 上映中観客は、乱雑に波打つ事の無い、計算されつくした静かで確かな感情曲線を描かされる。例えるなら、水の注がれたグラスをこぼさないように早歩きでゴールに運んでいく緊張感と、ゴールでその水を一気に飲み干す爽快感。芸術というより、職人の技術を見せられたような感動とカタルシスのある佳作だ。

監督●ロジャー・ドナルドソン
出演●ジェイソン・ステイサム、サフロン・バロウズ、スティーブン・キャンベル・ムーアほか
上映時間●1時間50分 配給●ムービーアイ
【イントロダクション】
1971年ロンドン、英国全土を揺るがす一大事件が発生した。ベイカー・ストリートにある銀行の地下に強盗団が侵入、貸金庫内の数百万ポンドにも及ぶ現金と宝石類を強奪して行方をくらませたのだ。だが事件の報道は突如打ち切られた。それは英国政府からのD通告(国防機密報道禁止令)によるもので、そこには報じてはならない秘密、王室スキャンダルが隠されていた…。

2009年7月23日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第13回センター・オブ・ジ・アース

第13回「センター・オブ・ジ・アース」

 子供の頃、飛び出す絵本が大好きだった。高価だった為なかなか買ってもらえなかったので、本屋に連れて行ってもらった時ボロボロになったサンプルをいつまでもいじり回していた。平行法やら交差法やらで立体視できるCG集が流行った時も、毎日のように本屋に通って頭痛がするまで飛び出し具合を堪能した。ホログラムのシールも好きだった。ビックリマンシールを集めていて、「魔肖ネロ」という、顔の部分がホログラムで印刷されたレアシールを宝物にしていた。いつも顔部分を指で触っていた。よくわからないが魔肖ネロになりたいとさえ思った。とにかく僕は「飛び出てくる(ように見える)物」が大好きだった。今も好きだ。
 本作「センター・オブ・ジ・アース」は、そんな僕の「飛び出て見える欲」を十分満足させてくれる3D映画だ。映画というよりもアトラクションに近い。
 迫力ある映像で観客に疑似体験させるアトラクション型ムービーを観ていると、「元々、『映画』ってこういう物だったんだろうな…」と思えてくる。こういうタイプの映画は、できるだけ大きなスクリーンで観るべきだ。
 逆に、セリフや演出から自分なりに解釈を楽しむタイプの言語的で知的な映画は、スクリーンのサイズがでかくなればでかくなる程、でっかいフォントで難読漢字を読まされてるような気分になる。「ほら!でかいから読めるでしょ!」みたいな、馬鹿にされてる気分だ。大スクリーンの劇場で、小難しい地味な文芸作品を頭をひねって観るのは、考えようによっては奇妙な行為なのかもしれない。そんな事まで考えてしまった。
 この作品は、映画というメディアが本来持つ見世物小屋的な楽しみ方を思い出させてくれる。「トロッコ速えー!」「気持ち悪い魚飛び出てきた!」「恐竜出たー!怖えー!」と脊髄反射的リアクションをしながら、シームレスに童心に帰っていく。子供の頃の自分に見せてあげたい、と素直に思った。
 映画を観るとき眼鏡をかけてるので、眼鏡の上から3Dメガネをかけていたのだが、「眼鏡という真面目アイテムと、3Dメガネという非真面目アイテムが、がっちりと手を組んだ…!!」って思って、ちょっと気持ちが盛り上がった。

監督●エリック・ブレヴィグ
出演●ブレンダン・フレイザー、ジョシュ・ハッチャーソン、アニタ・ブリエム、セス・マイヤーズほか
上映時間●92分 配給●ギャガ・コミュニケーションズ
【イントロダクション】
アイスランドで地質学の調査を行っていた科学者トレバーと甥っ子ショーン、地元ガイドのハンナは、洞窟の中に突然閉じ込められてしまう。脱出する道を求め地球の奥深く、地底160?の世界を旅しながら、3人は巨大な恐竜や未知の植物、磁力で浮かぶ不思議な岩場、荒れ狂う大自然の猛威などに次々と遭遇。さらに地底の火山活動が活発化。急いで地上に戻る道を見つけねば!?

2009年7月16日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第12回 20世紀少年

第12回「20世紀少年」

 この映画は、ある世代の大人達が、彼等の限定的な文化圏から見た「20世紀」に、けじめを付けようとする物語である。遠い過去に置き忘れてきた、私的な妄想。それが突然目の前に現れ、現実社会を巻き込んであたかも「20世紀」を総括するかように、世界を終わらせていく。「世界を終わらせる」というリアリティの無い言葉自体20世紀の遺物なのだが、大阪万博、アポロ11号、高度経済成長、ハットリくん、鉄人28号、平凡パンチ、そういった数々のキーワードが、古き良きとされた20世紀への決別を意図してるかのように、ドライな空気を纏って登場する。
 あの時代の少年達が描いた未来に、良くも悪くも我々は辿りつかなかった。有り得なかった未来をレトロフューチャーな妄想と断じて整理を付けるのが「大人」であるとして、その代表がロックミュージシャンの夢を諦めた主人公ケンヂである。対して、少年の日の妄想世界に現実を引きずり込もうとしているのが「ともだち」だ。そのせめぎ合いが物語を作っていく。
 この映画はハリボテの神話である。「悪の組織」が「世界征服」を企んで「巨大ロボット」で破壊の限りを尽くす。テロリズムの政治性や宗教の精神性、事件に説得力を与える社会的背景等を意図的に無視しながら、事態はどんどん前に進んでいく。現実感の無さに、映画が支配されていく。「歴史物語が幾つもの世代を越えていくうちにリアリティを失って神話になる」という過程を、即興ででっち上げたようなハリボテ感が、作品全体を覆う。常に「ともだち」のチープな妄想に映画が寄り添っていて、その絶望感に抗うからこそ、ケンヂ達は主人公たり得るのだ。
 原作は、冒頭からワクワクしながら読んだ。「ともだち」の正体と動機が何なのか知りたくて、ページをめくる手が止まらなかった。映画は、監督が語るように原作原理主義を徹底して作られている。既読だったからなのか、映画は初見のワクワク感が薄れてしまい、ある意味確認作業のように観てしまった。群像劇でもあるので登場人物が多数出てくるのだが、2時間22分ではそれぞれを掘り下げて描くのは難しい。ハリボテ世界の世紀末的風景は退屈しないが、全てを映像でじっくりと語る余裕が無く、少し物足りなく感じた。
 原作が、3部作の映画じゃとてもまとめられない位、壮大過ぎるのかもしれない。

監督●堤幸彦
出演●唐沢寿明、豊川悦司、常盤貴子、香川照之、石塚英彦、宇梶剛士、宮迫博之ほか
上映時間●2時間22分 配給●東宝
【イントロダクション】
1997年、ケンヂはロックスターになる夢を諦め、コンビニ経営をしながら失踪した姉の赤ん坊の面倒をみていた。巷では「ともだち」と呼ばれる教祖と謎の教団が出現し、怪しい事件が起こり始めた。その事件は、小学生のケンヂが仲間と作った秘密の遊び、悪の組織とそれに対抗する正義の味方が登場する「よげんの書」の内容にそっくりだった。

2009年7月8日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第11回崖の上のポニョ

第11回「崖の上のポニョ」

 「2008年夏、日本だけでなく世界の人々が自信を失い、経済政策の行き詰まり、食料や原油価格の高騰、地球の温暖化問題など、解決の糸口さえ見つけられず、不安を抱きながら漫然と生きている現代…」
 上の文章はパンフレットに書かれてた作品説明の出だしだ。上映開始前に度肝を抜かれた。小さい子供向けの「わんぱくゆかいなまんが映画」を想像していたが、この文章は全く違うものを想像させられる。宮崎駿監督は本作の意図をこう語る。「神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」そのメッセージは、何かとてつもない物を目撃させられる覚悟を、観客に促す。「ぽーにょ、ぽーにょ、ぽにょ」歌ってる場合じゃない。
 上映終了。奇妙な映画だった。キャラも設定も世界観もストーリーも構成も、何もかもが奇妙だ。ポニョが何なのか、フジモトやグランマンマーレが何者なのか、わからない事だらけだし、舞台も日本の何処かという感じがしない。外側に世界地図を全くイメージできないし、主人公宗介が住む崖の上の家の為だけに用意された童話的港町だ。
 物語の冒頭、宗介が少女になったポニョではなく、魚の姿のポニョをいきなり好きになる。有無を言わさず運命的に。「もしかしたら、この魚オスかも」とか微塵も考えさせない。それは奇妙と言うか、作品全体を覆う大きな不安の原因になっている。「宗介の好きはLOVEじゃなくて、LIKEなのではないか?」という問題だ。作中、宗介がポニョに対して頬を赤らめてドギマギするような場面は無いし、重要なキスシーンもポニョの方からしている。演出意図があったとして、そこに示されているのは、宗介は「恋」よりも「責任」によってポニョと結ばれるという、五歳児のボーイミーツガール物としては掟破りとも言える生々しい恋愛観であり結婚観だ。対照的にポニョは、「恋」で無ければ説明が付かない程の圧倒的なエネルギーで、地獄の押しかけ女房ぶりを炸裂させる。
 うねる漆黒の波、落ちる月、世界の終わりを思わせる絶望的風景の視覚的ダイナミズムに彩られ、爆発するポニョの恋。暴風雨を巻き起こし、膨れ上がらせた海の上を疾走する彼女の姿に、「神経症と不安の時代」に立ち向かう力は仮託されている。車を走らせて波から逃げ回る母親の手から、宗介を奪うかの如く迫る、ポニョのプリミティブな勇ましさと横暴さ。衝動に殉ずる迷いの無さ。そして神々しさ。この嵐のシーン以外あまり印象に残らなくなってしまう位、見応えがあった。
 町が水没して以降のシーンは、死後の世界のような不気味な穏やかさと静けさが延々と続く、長い長いエピローグのように思えた。ポニョの瞬間最大風速的な情熱を描いた、前半部分の派手さに対して、責任を持って全てを受け止める宗介の覚悟と、この先淡々と延長されていくはずの二人の日常が、恐らく後半部分の地味さには込められている。
 とにかく度肝を抜かれた。「ぽーにょ、ぽーにょ、ぽにょ」歌ってる場合じゃない。


監督●宮崎 駿
出演●山口智子、長嶋一茂、天海祐希、所ジョージ、奈良柚莉愛、土井洋輝ほか
上映時間●101分 配給●東宝
【イントロダクション】
崖の上の一軒家に住む5歳の少年、宗介は、ある日、クラゲに乗って家出したさかなの子、ポニョに出会う。アタマをジャムの瓶に突っ込んで困っていたポニョを、助けた宗介。そんな宗介のことを好きになったポニョが、人間になりたいと願ったため、海の世界は混乱に陥り、人間の町に大洪水を引き起こすことに…!?

2009年7月2日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第10回インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国

第10回「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」

 19年ぶりに復活したインディ・ジョーンズ。「あれから19年か…時代も変わったな」って思ったら、舞台がまだ冷戦時代だったので驚いた。前作観たのが子供の頃だったからか時代背景がよくわかってなかったらしい。
 そのお陰で、良くも悪くも「歳を取ってIT時代に置いてかれるインディ」みたいなアングルが成立せず、若々しさ溢れる活劇を堪能できた。「あの名作が○○年ぶりに帰ってきた」みたいな作品が最近多いけど、概ね昔のままだ。「もうあの頃とは違うんだ…」みたいな切ない「劇画オバQ」スタイルも、そろそろハリウッド大作で観てみたい。ファンが許さないだろうし需要もなさそうだけど。
 物語は、秘宝をめぐって悪い奴らから逃げながら大冒険する黄金パターン。展開、アクション全てに「古き良き」を付けたくなる。舞台が21世紀だったら赤面してたかもしれないけど、時は1957年。ノリノリで楽しめた。
 キャスティングは、ケイト・ブランシェット演じるソ連のクールビューティー工作員スパルコのキャラが立ちまくっていて、「悪役チームって他に誰かいたっけ?」と思うくらい釘付けにさせられた。他の出演キャラ全員食われてたかもしれない。髪型や制服も印象的で見た目からしてマンガチックだったので、両隣に「怪力担当の小男」と「メカに詳しい出っ歯」を配して、サドっ気を発揮しながらドクロストーン(クリスタルスカル)を追いかけて欲しい…とか、妄想させられた。実際そこまでする必要は無いけど、悪役チームが物足りなかったのは確かだ。それから役者ではなく脚本上の問題だけど、スパルコは共産主義を象徴する位置づけのキャラでもあるから、最後まで国家への忠誠心を行動の軸に置いて欲しかった。後半、そこがどうでも良くなっていて残念に思えた。
 全体を通して既視感たっぷりの作品ではあったものの、妙に印象に残ったシーンが二箇所あった。「軍隊蟻に襲われるシーン」と「核実験場のシーン」だ。軍隊蟻の場面では、昔「黒い絨毯」という殺人蟻の大群に襲われるパニックムービーがあったのを思い出させられ、核実験場ではマネキンの町に紛れ込んだ気味の悪さを心地よく感じさせられ、どちらのシーンでも「コレでもう一本映画作ってくれ!」と思わず言いたくなった。両方スピルバーグっぽいアイデアなんだが、そう思わせる力量はさすがだ。
 さっきスパルコにドロンジョを重ねてしまったのは、核実験の場面でキノコ雲を見たからだと今気付いた。

「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」
監督●スティーブン・スピルバーグ
出演●ハリソン・フォード、シャイア・ラブーフ、ケイト・ブランシェット、カレン・アレンほか
上映時間●2時間2分 配給●パラマウント ジャパン
【イントロダクション】
旧ソ連が台頭した1950年代の冷戦時代を背景に、超常現象的な古代の遺物を求めるインディ。彼が探し求める秘宝は、ヒーリングのパワーや宇宙の神秘を紐解く力を持つというクリスタル・スカル。そこに立ちはだかる冷酷非道なソ連軍のエージェント、スパルコ。インディは敵から逃れ、秘宝を手に入れることが出来るのか、そしてスカルに秘められた謎とは? 最大の冒険と戦いが始まる!

2009年6月25日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第9回ザ・マジックアワー

第9回「ザ・マジックアワー」

 「笑った」「笑えなかった」の基準は個人差があるため、コメディ映画を客観的な視点でレビューするのは難しい。どう書いても単なる個人的な感想になってしまう。それを考慮した上で、批評的な視点をなるべく失わないように、自分の抱いた感想をそれなりに理屈っぽく解釈していきたいと思う。
 三谷幸喜作品は割と好きでドラマも映画も結構観ているのだが、本作は今までで一番笑わされた。最初の印象としては、前作「THE有頂天ホテル」のような「何も考えずに観て、老若男女が楽しく笑って帰る」タイプのライトなエンタメ映画である。しかし後になって、これはかなりギリギリのラインで笑いを追求しているストロングスタイルのコメディだったのではないかと思い直した。
 三谷作品のような、「勘違い」や「すれ違い」によって起こるドタバタ喜劇の追求するギリギリのラインとは、「状況が成立する説得力をどの地点まで保てるか」にあると、自分は思う。状況が成立しやすい日常的なシチュエーションである程笑いは緩くなるし、かと言って非日常に行き過ぎてしまうと説得力を失い、観てる方は冷めて笑いも失ってしまう。そういう見地で観た時、この映画は大前提として仕掛けている勘違いの設定がかなり大胆で、それはギリギリのラインに肉迫していると断言できる。
 巻き起こる事件全てが映画の撮影だと騙される俳優と、その俳優を伝説の殺し屋だと思い込んでしまうギャング達。自分は「そんな強引な勘違い成立する筈が無い」と展開を見守りながらも、思いっきり爆笑させられた。説得力を持ってそれが見事に成立しているのだ。練りに練った脚本、役者の演技力、セットのような街並で演出された世界観、全てがその状況に説得力を与えるよう、秀逸に作り込まれている。
 そして、そこが「ギリギリのラインである」となぜ判断したのかと言うと、自分は最後の大オチで笑えなかったからだ。急に「それは無い」と冷めてしまった。多分、自分の中でのラインを超えてしまったのだろう。ただ、そのラインは個人個人微妙に違う場所に引いてあって、最後が一番笑えるという人もいるだろうし、もっと前の時点で冷めてしまう人もいるかもしれない。「笑えた」「笑えなかった」の個人差は、きっとそこに現れるのだと思う。
 散々笑わされたこの作品を、最後の最後で笑えなかったからこそ、僕は支持したい。この作品は緩くない。

「ザ・マジックアワー」
脚本と監督●三谷幸喜
出演●佐藤浩市、妻夫木聡、深津絵里、綾瀬はるか、西田敏行ほか
上映時間●2時間16分 配給●東宝
【イントロダクション】
舞台は港町・守加護(すかご)。知らないうちに“伝説の殺し屋”に仕立て上げられた売れない俳優・村田大樹。映画の撮影だと思い込んでいる彼にとって、その街で起こることは、すべて映画のなかの出来事。ゴム製の拳銃片手に本物のギャングたちと渡り合うことになる村田。誤解が誤解を呼び、やがて事態は誰もが予想しなかった方向へ…。

2009年6月18日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第8回ランボー 最後の戦場

第8回「ランボー 最後の戦場」

 今回のランボーは、軍事政権の圧政下にあるミャンマーを舞台に、前作までとは比べ物にならない位生々しく凄惨な戦闘を軍相手に繰り広げる。
 「ミャンマーで現実に起こっている虐殺を世の中に訴えたい」というスタローンの意向があると聞いた時、正直「説教臭や解説臭のプンプンするややこしい映画なのかなあ」と不安に思ったのだが、蓋を開けてみたら全然違った。驚くほどシンプルだ。ミャンマーの政治的背景や歴史的背景については誰も全く語っていない。冒頭に断片的なニュース映像が多少あるのみだ。ストーリーは、捕らわれた宣教師達をランボーと5人の傭兵部隊が救出するという単純なもの。特に目を見張るような展開は無い。更に言えば、今までのようなランボーの非現実的で超人的な活躍も、激しい感情の発露も無い。あるのは状況だけだ。「殺戮者を殺戮する」という状況。一言も語らずに、そのストレートな状況描写だけで、背景にあるミャンマーの重い現実を見せ付けられる。「どんな事があっても人殺しは許されない」と断言していた宣教師も、その圧倒的な状況を目の当たりにして何も言えなくなる。「痛ましい状況だ」とか「生き残る為には仕方ない」とか何らかのリアクションを待ってたんだが、最後まで何も言わなかった。ランボーもまた虚しい表情をするだけで状況に対しては無言だ。
 しかし、こんなにも言葉数の少ない映画にも関わらず、怒りや悲しみや強烈なメッセージが作品からヒシヒシと伝わってくる。それはランボーの怒りや悲しみというより、スタローン自身の怒りであり悲しみである。「地球上で最も報道されていなくて、最も生々しく破壊的な人権侵害が行われているのはどこか?」スタローンはリサーチを重ね、ランボーの最後の戦場にミャンマーを選んだ。ミャンマーの少数民族への迫害は、現在進行形で行われている悲劇である。彼らの境遇を代弁すべくランボーが立ち上がる訳だが(物語上は拉致された宣教師の救出が目的だが)、架空のヒーローであるランボーにミャンマー軍を全て壊滅させる訳にはいかない。ひとつの戦いを終えた後、何も語らず虚しい表情を見せ、状況への解釈を観客に託す事しか出来ないのだ。
 「殺戮者を殺戮する」という状況のみを、語らずに提示する。その静かさに、ミャンマーの現状に対するスタローンの怒りや悲しみが真剣であると、強く感じる事が出来た。

「ランボー 最後の戦場」
監督●シルベスター・スタローン
出演●シルベスター・スタローン、ジュリー・ベンツ、ポール・シュルツほか
上映時間●90分 配給●ギャガ・コミュニケーションズ
【イントロダクション】
ミャンマー軍による少数民族への迫害が激化する国境で、ランボーは戦いから遠ざかり淡々と日々を生きていた。しかしある日、支援のため、アメリカから宗教組織の一員のサラという女性が現れる。その熱意に折れ、目的地の村まで送ったものの、本拠地に戻った彼に、サラたちの到着した村が軍に襲撃されたという知らせが届く。救出部隊の傭兵5人にランボーが加わった…。

2009年6月11日 [施川ユウキ映画コラム]

施川ユウキ映画コラム「全ての映画は、ながしかく」第7回フィクサー

第7回「フィクサー」

 この作品は、ある大手製薬会社に対する3千億円にのぼる薬害訴訟事件をめぐって、弁護士マイケル、上司であるマーティ、同事務所のエリート弁護士アーサー、そして、製薬会社の法務担当カレンが如何に判断し行動するかを描いた、一言で言うと「大人達が必死な映画」である。主要キャラに若者はほとんどいない。大人だらけだ。
  「大人だらけ」と言われても、大人と若者を何処で分けてるのかピンと来ないかもしれない。「相応に年を重ねている」「分別がある」「落ち着いた雰囲気を持っている」「複雑に物事を考えている」だから大人かと言えば多分そうではない。僕がこの映画を観て思うに大人とは、ある種の社会的立場であったり、資産や負債であったり、妻や子供であったり、人生を決定付ける大きな物を「既に獲得してしまった人々」の総称なのではないだろうか。逆に言えば「これから獲得しようとしている人々」が若者だ。
 本作に登場する主要キャラの中で、若者は原告である農家の娘アンナだけだ。裁判で賠償金を獲得する事が彼女の人生の目的となっている。アンナ以外の登場人物は、マーティもアーサーもカレンもカレンの上司もマイケルもマイケルの顧客達も皆「既に獲得してしまった人々」だ。彼等の人生の目的は獲得してしまった物を守る事であり、周囲からもそうあるべきと求められている。もし、その行動が善悪という価値基準と衝突した時、正義を選択する事は彼等にとって破滅を意味する。多くの人を巻き込んで全てを失う。獲得してしまった物が大き過ぎる「大人達」は、当たり前であるべき正義を容易には選べないのだ。そんな中、良心の呵責に耐えかねたアーサーは正気を失って正義を選択しようとする。正気を失わないと正義を選べないというのは皮肉な話だが、結果アーサーは消され、それを知ったマイケルは徐々に正義へと目覚めていく。
 この映画は、冒頭で起こった自動車の爆破シーンから突然4日前に遡り「なぜそうなったのか」を延々描いていく、という構造を持っている。起こってしまった事の辻褄を合わせていく演出は、もみ消し屋(フィクサー)であるマイケルの仕事と重なって見える。物語の組み立て方を含め、所々に「手遅れ感」の漂う物悲しい大人の映画だった。

「フィクサー」
監督●トニー・ギルロイ
出演●ジョージ・クルーニー、ティルダ・スウィントン、トム・ウィルキンソンほか
上映時間●120分 配給●ムービーアイ
【イントロダクション】
巨額の薬害訴訟において、被告である巨大製薬会社有利に解決されようとしていた最中、製薬会社の弁護を担当する同僚がすべてを覆す秘密を握ってしまう。暴露を恐れた事務所は“フィクサー”であるマイケル・クレイトンにもみ消しを依頼する。活動を開始したマイケルに知らされた同僚の不審死。その真相を追究する内、彼は隠蔽工作に留まらぬ予想をはるかに超えた陰謀の存在に気づく。

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